落合政権と比較…立浪監督に「根性が欲しい」 中日OBが提言「迷っているうちは駄目」
藤波行雄氏は36歳で引退…解説者で活躍し、指導者も経験した
元中日外野手の藤波行雄氏は1987年に36歳で現役を引退。その後はテレビ、ラジオなどで解説者を務め、独立リーグ、大学、高校で指導者も経験した。静岡商、中央大、中日と、自身が学んできたことを次の世代に伝えるのが役目と考えて行動してきた。72歳になった今も「声がかかれば行こうと思っています」と意欲的だ。野球とともに、ドラゴンズとともに……。中日のことはもちろん、中央大の後輩たちもチェック。藤波氏の野球人生は継続中だ。
2023年6月5日、藤波氏は「第72回全日本大学野球選手権」の始球式に登板した。「中央大の時にキャプテンで優勝(1973年の第22回大会)したから俺に声がかかったんですよ。肩が壊れているから近くで投げたけど、ストライクは入らなかったね」と照れ笑いを浮かべた。現役を引退して37年。藤波氏はユニホームを脱いだ後も、野球に携わり続けた。
「東海ラジオの解説者になって1年目の1988年、ベロビーチキャンプに行って、中日とドジャースの試合をラジオ中継したのも思い出ですよ」。東海テレビのドラゴンズ番組に出演するなど、テレビ解説でも活躍した。2005年からはドラゴンズジュニアのコーチとなり、4年目に優勝。独立リーグ・三重スリーアローズのコーチや母校・静岡商の外部コーチ、2018年4月から2020年5月まで常葉大学浜松キャンパス硬式野球部の総監督も務めた。
「常葉大学の時はコロナ禍で愛知から静岡とか、近いのに県外移動が厳しくて、それで終わっちゃったんですよね」と残念そうに話したが、野球はプロもアマも注視している。ドラゴンズ一筋で現役を終えただけに、古巣のことはどこよりも気になっており「立浪監督も3年目。あれだけの選手だったし、監督としてもいい成績を残してほしい。巻き返してほしい」と大逆襲を切に願っている。そして敢えて「これまではフロントと現場に一体感がないように見えたからね」と苦言も呈した。
中日“逆襲の鍵”はセンターライン「こいつを使うって決めてやらないと」
中日のことを話し出すと自然と口調も熱くなる。「ショートとセカンドをどうするかだよね。あの選手も使うし、この選手も使う。調子のいい選手を使って駄目なら代えるってやり方はよくないと思う。特にキャッチャー、センター、二遊間はこいつを使うって決めてやらないと、迷っているうちは駄目ですよ。選手が監督の顔色をうかがっているようでも駄目。開幕2か月が勝負かな。そこで軌道に乗れるかだね」。その上で“手本”として、落合博満氏の名前を挙げた。
「落合は球団から大してバックアップを受けていなかったと思う。フロントとも決してうまくいっていなかったんじゃないのかな。それでも成績を残せたんだから、ど根性あるよね。立浪監督にも、あれくらいのど根性は欲しいところ。最低でもAクラス。やっぱりシーズンの最後までファンを楽しませてもらいたいよね」
中央大の後輩たちの活躍も楽しみにしている。「阪神の森下(翔太外野手)は日本シリーズでも活躍したけど、すごいと思う。意外性もあるし、勝負強い。大したもんだねよ。(DeNAの)牧(秀悟内野手)もコンスタントに打つよね。森下も牧も中央大に入ってよかったんじゃないかな。今の清水(達也)監督はのびのびとやらせるからね。巨人に入った西舘(勇陽投手)がどんなピッチングをするか。(巨人・阿部)慎之助監督はどうかな。頑張ってほしいね」。
こんなことも話した。「慎之助とは彼がプロに入って2年目くらいまではよく飯を食ったけどね。トヨタ自動車の藤原(航平)も中央大で慎之介の後輩だから、一緒に飯に誘ったことがあったけど、藤原は今や都市対抗も優勝したトヨタの監督だし、慎之介も巨人の監督になっちゃった。もうセッティングできないし、ご馳走してやるなんて言えない。ただただ誇らしい後輩ですよ」。
藤波氏は1973年ドラフト会議で中日に1位指名されて入団し、1年目に優勝&新人王。だが、3年目の1976年オフにクラウン(現西武)へのトレードを拒否し、開幕6カード出場停止、背番号「3」の剥奪など球団処分を受けて残留して以降、その騒動が“代名詞”のようになった。それをバネにして現役生活を送った。「あの年は結婚も翌年に控えていたし、大学の卒業のこともあった。プロに入ってからもテストを受けたりして7年で卒業したんでね。いろいろ大変でしたよ」。
「中日の指導者をやりたいという目標はあった」
1987年に現役引退して以降、藤波氏はドラゴンズのユニホームを着ていない。「中日の指導者をやりたいという目標はあったんですけどね。でもこればかりはね。決めるのは監督とかだから……。もう72になってしまったから、この年だから、ああそういう野球人生だったかなって思うけど、プロの選手の指導をしていないから、まだ完結はしていないんだよ。納得しないといけないんだけどね」と胸の内も明かした。何とも言えない表情で……。
高校、大学、プロ、解説者、アマチュア指導者……。藤波氏はその時代、時代でいろんな人に出会い、いろんなことを学び、経験してきた。「でも、やっぱり一番はファンの方々ですよね。どんな時でも応援していただいたことに、とても感謝しています」と声を大にする。時の流れとともに恩人たちとの別れも増え、寂しさもあるが、これからも野球に向き合っていくのが恩返しと考えている。
バンテリンドーム内にある中日の名選手を紹介する「ドラゴンズミュージアム」には藤波氏のパネルもある。「一途にドラゴンズを愛したって書いてある。(写真も)正面から見ると40番、横からみると3番って見えるように作ってくれているんですよ」。プロ4年目から引退の14年目まで背負った「40」だけでなく、プロ3年目までつけて、トレード拒否で剥奪された懐かしの背番号「3」姿も角度によって“復活”。藤波氏はそれをファンの人に聞いて知ったという。
「俺も見に行きました。本人からしたらうれしいよね。普通、そんなことしてくれない。新人王を取ったけど、あれはおまけみたいなものなのにね。杉下(茂)さんや権藤(博)さんや(高木)守道さん……。そんな歴代の凄い人たちと一緒に飾られているんだからね」。トレードを拒否して批判されながらも、中日一筋を貫いた藤波氏の野球人生。それは令和の今も変わらない。球団から離れて何十年経とうと常にドラゴンズとともに歩んでいる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)