巨人コーチの言葉にカチン “エラー扱い”に激高「火がついた」…叩きつけたヘルメット
0-7から猛追「同じ負けにも、負け方というものがある」
巨人で左の強打者として活躍し、風貌がタレントの毒蝮三太夫さんに似ていることから「マムシ」の異名を取った柳田真宏氏が、野球人生を振り返る第2回。栄光のV9最終年の1973年には、優勝に欠かせない一発を放っている。
名将・川上哲治監督のもと、長嶋茂雄と王貞治の“ON砲”を中心に、前年まで8年連続リーグ優勝&日本一を達成していた巨人は1973年、シーズン最終盤まで阪神と激しいつばぜりあいを演じた。10月11日には本拠地・後楽園球場で、ゲーム差なし(勝率1厘差)でわずかに先を行く首位・阪神と直接対決。ところが、先発のエース・堀内恒夫が立ち上がりに打ち込まれ、2回終了時点で0-7と大量リードを許す。このまま敗れれば、阪神に残り4試合でマジック3が点灯する大ピンチだ。
「誰が見ても負け試合でしたが、当時のジャイアンツは選手個々にプライドがありました」と柳田氏。「川上監督が普段から口を酸っぱくして言っていたのは“球際の強さ”。簡単に言えば、諦めないことです。10-0で負けるのも、10-9で負けるのも、同じ負けだけれど、負け方というものがあるだろうと。せめて1点返して負けてやろうじゃないか、1点返したら、もう1点返して負けようじゃないか、という思いの積み重ねで追い上げました」と振り返る。
実際、巨人は阪神のエース・江夏豊を攻め、4回に4点、6回に5点を返し逆転。その後阪神も反撃し、7回終了時点で9-9と両者譲らぬ展開となった。柳田氏は代打で途中出場し、そのまま中堅の守備に入っていた。
8回の守備中に、試合が動いた。阪神は1死三塁のチャンスをつかむと、望月充が詰まりながら中前に落ちる勝ち越し適時打を放ち、10-9と勝ち越し。センターを守る柳田氏は猛然と前進し、この飛球をグラブの先に当てたが、惜しくも捕り切れなかった。
「俺の足だからあそこまで追いつけた」はずが…まさかの“エラー扱い”
1点ビハインドのままチェンジとなり、ダッグアウトに戻った柳田氏は周囲の雰囲気に愕然とする。「(勝ち越し適時打は)もちろんエラーではありませんでしたし、むしろ、俺の足だからあそこまで追いつけたという気持ちもありました。しかし、ダッグアウトで誰も俺の顔を見ない。まるで俺のせいで巨人の連覇がストップするかのような雰囲気でしたよ」
その裏の攻撃。1死走者なしで柳田氏に打順が回った。左打席へ向かう柳田氏の背中へ、福田昌久コーチが「打って取り返せ!」と声をかけた。完全な“エラー扱い”にカチンときた。
マウンドには阪神4番手の右腕・谷村智啓。カウント1-2と追い込まれ、4球目のフォークボールに少し体を泳がされたが、バットでうまく拾うと、打球は右翼ポールを直撃。劇的な同点ソロとなった。
柳田氏は二コリともせずダイヤモンドを1周。歓喜のチームメートにもみくちゃにされながらダッグアウトに戻ると、ヘルメットをベンチに叩きつけた。コーチの言葉がまだ脳裏に残っていたからだ。「ムカムカしていました。でも考えてみれば、あれで俺の心に火がついたのだから、感謝しなければいけませんよね」。50年が経過した今、冷静に振り返っている。
シーズン最終戦で圧勝して優勝「最終戦にもつれ込んだ時点で勝ったと確信した」
試合は3時間50分の激闘の末、10-10で9回時間切れ引き分けに終わった。柳田氏は途中出場ながら、3打数3安打2打点の活躍だった。
結局、巨人と阪神は11日後の10月22日、お互いのシーズン最終130試合目に甲子園球場で再び直接対決し、“勝った方が優勝”という緊迫の一戦となったが、巨人が9-0で大勝しV9を達成した。
「最終戦にもつれ込んだ時点で、ジャイアンツの全員が『勝った』と確信しました。ものすごいプレッシャーがかかる試合でしたから、優勝経験の豊富なチームと少ないチームに差がありました」と柳田氏。とは言え、“マムシ”の活躍がなければ、巨人の連覇は「8」で止まっていたかもしれない。
柳田氏は現役引退後、歌手に転身し、現在は東京都八王子市でカラオケスナック「まむし36」も切り盛りしている。75歳となった今は、好々爺とした笑顔を浮かべているが、激情に駆られながら殊勲の一発を放った1973年の試合を忘れてはいない。
(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)