高卒新人が逆ギレで“試合中に帰宅” コーチ無視で爪切り…クビ覚悟した「職場放棄」
柳田真宏氏は1966年1次ドラフト2位で西鉄に入団…1年目から出場機会を得た
かつて「巨人史上最強の5番打者」と称され、風貌がタレントの毒蝮三太夫さんに似ていることから「マムシ」の異名を取った柳田真宏氏が、波乱万丈の野球人生を振り返る第3回。1966年1次ドラフトで西鉄(現西武)から2位指名され、入団した当初から負けん気の強さを示すエピソードには事欠かなかった。
柳田氏は熊本・九州学院高在学中の1966年9月、1次ドラフト(同年はドラフトが2度開催)で西鉄から2位指名された。事前には、故郷・熊本の憧れの先輩である川上哲治氏が監督を務める巨人が、3位指名すると聞かされていた。「九州学院の監督からは『(入団を拒否して)東京六大学へ進学するか?』と言われましたが、勉強は好きではない。『勉強しながら野球をやるのは嫌です』と言って西鉄に行きました」と笑う。
プロ初安打は1年目の1967年8月27日、後楽園球場で行われた東映(現日本ハム)戦。この試合では西鉄の選手3人がそろって初安打を記録した。後にプロゴルファーに転向して日本を代表するプレーヤーとなる尾崎将司(当時は正司)氏、柳田氏より1年早く1965年のドラフト1位で高知商高から入団していた浜村健史氏、そして柳田氏である。
「浜村さんがスタメン出場してヒット。尾崎さんも途中から出てヒット。俺1人が残されました」。8回に浜村氏の代打として起用された柳田氏は、打席に向かう際、監督兼選手だった中西太氏から衝撃的なひとことを浴びせられた。「打てなかったら、熊本へ帰れ」。
当時は19歳になったばかり。「今思えば冗談だったかもしれませんが、プロ1年生ですから本気にしましたよ」と振り返る。異常な集中力で臨んだこの打席で、後に巨人でチームメートとなる高橋善正投手から右翼へ決勝ソロを放ち、劇的な形でプロ初安打を刻んだのだった。
2年目オフにトレードで巨人へ「問題児の俺を厄介払いしたかったのかも」
高卒ルーキー時代の逸話はまだある。1年目から1軍入りを果たした柳田氏だが、当初は出場機会が少なく、ある日、ナイターの1軍戦の前に、デーゲームの2軍戦にも出場するように命じられた。「ところが、その2軍戦に行っても使ってもらえない。ベンチでふてくされて爪を切っていました。コーチから『メリー(当時の柳田氏のニックネーム)、応援しろ!』と言われても、知らん顔をしていましたよ」と明かす。
ついに「やる気がないのか!」と怒鳴られ、かっとして「はい!」と言い返すと、なんとそのまま合宿所へ帰ってしまう。ナイターの1軍戦にも姿を見せなかった。「完全な出場ボイコット、職場放棄です。冷静になり、これはクビになると覚悟しました」。翌日に監督室を訪れ、中西監督に「すみませんでした」と頭を下げた。返ってきたのは、意外なひとことだった。「ええ根性しとる。野球に生かせ」。
こうしてクビがつながった柳田氏は、西鉄には2年間在籍しただけで、1968年オフにトレードで念願の巨人に移籍した。「川上監督には『もともと西鉄に3年預けて、巨人に迎えるつもりだった』と言ってもらいましたが、西鉄は“問題児”の俺を厄介払いしたかったのかもしれません」と苦笑する。これで「巨人史上最強の5番打者」への道が開けたとも言える。
「高卒ルーキーであんなことをやるやつは、プロ野球史上でも俺1人だろうと思っていたら、後年に同じ熊本出身で、同じように2軍戦で使ってもらえず、合宿所どころか熊本まで帰ってしまった男がいたと聞きました。後に大活躍した天才打者ですよ」と柳田氏。頑固な熊本県人の気質を意味する「肥後もっこす」の面目躍如と言えようか。
「俺はこう思います。プロ野球の世界に入ってくる以上、誰もが技術的にいいものを持っている。そこから頭ひとつでも、ふたつでも抜きん出るには、他人の言うことを『はい、はい』と聞くだけの優等生ではどうだろう。もちろん他人に迷惑をかけてはいけませんが、負けん気が強いからこそバットを振り、シャドーピッチングを繰り返すのではないか」
柳田氏は現役引退後、歌手に転向。現在はそのかたわら、東京都八王子市でカラオケスナック「まむし36」を経営している。現役時代のエピソードがにわかには信じがたいくらい、表情は柔和。荒っぽい昭和の球界を思い返し、ニヤリと笑った。
(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)