“横取りドラ1指名”に「あぁ…」 広島以外なら拒否約束も…頭を下げた内定取り消し

元西武・立花義家氏【写真:湯浅大】
元西武・立花義家氏【写真:湯浅大】

福岡の強豪、柳川商でプレーした元西武の立花義家氏「練習はすごくキツかった」

 2017~2021年にソフトバンクの打撃コーチを務めるなど、ダイエー時代を含め計13年間ホークスで打撃指導した立花義家氏(韓国プロ野球サムスン・ライオンズ3軍打撃コーチ)がFull-Countのインタビューに応じた。1980年代の西武の黄金期を支えた1人だったが、1976年ドラフトでクラウンライター(現西武)から1位指名を受けた当時は「カープに行きたかった」と“本心”を明かした。

 福岡県の大牟田市立勝立(かったち)中学(2017年3月閉校)で2年時に「4番・エース」として地区優勝に導くなど中心選手だった立花氏は、地元・福岡の柳川商(現柳川)に推薦入学。ただ、前年の1973年夏の甲子園で江川卓を擁する作新学院(栃木)相手に延長15回の死闘を演じたこともあり、野球部への入部希望者が殺到。77人の新入生を待ち受けていたのは壮絶な“振るい落とし”だった。

「練習はすごくキツかった。ずーっと走る。授業終わりの午後4時頃から2時間くらいかな。走り終わったら球拾いか、ベンチの前に並んで声出し。打撃練習のボールがどこかに飛んで行ったら我先に探しに行く。春の選抜にも出たばかりだから1年生が入る余地はなし。そうこうするうちに1人辞め、2人辞め……最終的には33人まで減った。後日談で監督は選手を減らそうとしていたんだと聞きました」

 まともに練習をさせてもらえなかったが、立花氏は「野球を頑張るために柳川商に入った。野球部を辞める時は学校を辞める時」と決め、厳しい環境にも弱音を吐くことはなかった。「これが普通なんだと思って、なんとか耐えました。ただ3年生のユニホームの洗濯が大変だった。自宅に持ち帰って洗うんだけど、その頃は乾燥機なんてないから翌日に部室の電球に掛けて熱で乾かしていました」と笑った。

 夏に3年生が引退すると、ようやく1年生も練習に参加。投手として入部した立花氏だったが、同期にエースとなる久保康生(現巨人巡回投手コーチ)がいたため、打力を生かせる右翼や一塁での起用が増え、攻撃の中心として2年春、3年夏に甲子園に出場。プロからも注目される存在へと成長していた。

「広島が好きでした。1位か2位で指名してくれる、という話でした」

 当時の希望球団は広島。1975年シーズン途中に監督に就任し、球団初の優勝に導いた古葉竹識のテレビに映る姿が「カッコよくてね。広島が好きでした。スカウトの方も熱心に来てくださっていて、1位か2位で指名してくれる、という話でした」。

 迎えた1976年11月19日のドラフト会議。当時は予備抽選で指名する順番を決定。1位など奇数順位の指名は1番を引いた球団から、偶数順位は12番からというルールだった。

「広島は11番目だったけど、12番目の阪神は自分を指名する予定はなし。だから広島が1位でなくても、すぐに折り返しの2位で呼ばれると思っていた」。広島以外の球団だったら社会人野球の松下電器(現パナソニック)に入ることで話もまとまっていた。

 ドラフト会議のテレビ中継もなく、知人らとソフトボールをして遊んでいたところ「ライオンズが1位で指名したよ」と聞かされた。「指名してもらったことは嬉しかったけど、自分は広島に行きたかったから『あぁ……』となったよね」。

 指名順位7番目のクラウンライターからの“横取り指名”。自身に興味を示していた球団ではあったが「1位だとは思っていなかった」。現在のような1位指名球団の競合による抽選もない。交渉権はクラウンライターが手にした。

 松下電器との約束もあって悩むも、周囲から「高校生の野手で1位指名なんてあまりないことだし、どうせプロに行くなら指名したところにお世話になりなさい」と背中を押されてクラウンライター入りを決意。球団フロント、野球部の監督、立花氏の父が松下電気に頭を下げて内定を取り消してもらい、クラウンライターへの入団が決まった。

 勝負強い打撃で外野手や代打として西武の黄金期を支える存在となった立花氏は「本当はカープに行きたいと思っていたんだけどね」と繰り返した。当時を思い出しながら優しい笑みを浮かべた。

(湯浅大 / Dai Yuasa)

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