プロに「行けるものなら…」 二刀流で甲子園を沸かした元ドラフト候補の現在

徳島インディゴソックス・岸潤一郎【写真:沢井史】
徳島インディゴソックス・岸潤一郎【写真:沢井史】

名門・明徳義塾の投打の中心を大学進学後に襲った苦難の日々

 徳島市内を流れる吉野川の南岸にあるグラウンド。初夏の陽に照らされながら見覚えのある背格好の選手が青い練習着に身を包み、打撃練習に打ち込んでいた。「自分、“足キャラ”になったんですよ」。足キャラ? ときょとんとしていると岸潤一郎の表情が柔らかくなった。その表情は、どこか涼しげに見えた。

 岸潤一郎。高校野球ファンなら、その名前で彼の足跡を知る者は多いはずだ。明徳義塾では1年春からレギュラーを獲るなど早くから実力の片りんを見せつけてきた。夏には4番に座り、打っては長距離砲として、投げては140キロを超える速球を操る右の本格派として、チームを背負ってきた。3年では主将も務めた岸に、名将の馬渕史郎監督も全幅の信頼を寄せていた。明徳義塾を卒業後は馬淵監督の母校でもある拓大に進み、1年春からスタメンを掴むなど、大学でもスター街道を歩んでいくかに見えた。

 だが、試合に出られても常にケガとの戦いが続いた。まず入学してすぐに肩を痛め、肩が回復すると次はヒジに痛みを感じた。そしてヒジが治れば肩の痛みが再発……という状況が続いた。打者としてリーグ戦に出場することもあったが、思うように成績が伸びなかった。

 ようやく投げられるようになった2年夏の紅白戦のことだった。「ちょっと投げてみるか、みたいな感じで久しぶりに投げることになったんです。先頭バッターを三振に抑えられたんですけれど、次の打者に1球目を投げた時にヒジが“ピーン”って来て。その感覚で、“あ、これはもう投げられないな”って。次の打者にもど真ん中の真っすぐしか投げられなくなって、ヒットを打たれました」。次打者はライトフライに打ち取ったものの、限界を感じて降板を直訴。その後、病院で診察すると右ひじの靱帯が緩みきっていることが分かった。

 地元に戻り、悩んだ挙句、大阪でトミー・ジョン手術に踏み切った。しばらく自宅療養したのち、大学へ戻るはずが岸の心の中には復学は選択肢になかった。

「これだけ思うように投げられなくなって、野球に打ち込めなくなったというか……。それよりも常に注目されてきて、期待の中で野球をやるのがしんどくなったんです。“好きなことをやれていていいね”みたいなことを言われるのが一番苦痛でした。応援していただくのはありがたいことなんですけれど、時には重荷に感じることもありました。親からは野球は辞めても大学だけは卒業したらと言われていたのですが、大学に身を置くこと自体がもう自分にはできないと思って」

 小さい頃から抜群のセンスの高さで常にチームの先頭に立ち、甲子園でも輝かしい姿しか浮かばない。だが、岸も人間。うまくいかない時もある。それでも現状を知らない人からすれば知る由もない。“頑張れ”という言葉は岸にとっては十字架でしかなく、野球と向き合える気力はもう残っていなかった。

ひっそりと拓大を退学、野球にはもうかかわらないつもりが…

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