屈辱の扱いで1軍に「行きません」 昇格拒否でトレード直訴「最後が阪神で良かった」

元西武・立花義家氏【写真:湯浅大】
元西武・立花義家氏【写真:湯浅大】

立花義家氏は1991年に西武で出場機会なし、阪神へ移籍した

 西武(前身時代含む)に15年所属し、勝負強い打撃で1980年代の黄金期を支えた1人だった立花義家氏(韓国プロ野球サムスン・ライオンズ3軍打撃コーチ)は、1992年に1年だけ阪神でプレーし、NPBでのキャリアを終えた。Full-Countのインタビューでは、西武を出た経緯や「最後が阪神で良かった」と胸中を明かした。

 選手としての晩年は主に代打での出場が多かった立花氏だが、プロ15年目の1991年は1軍での出場機会はなかった。西武での最後のシーズンとなったこの年は「2軍でのキャンプ中に右手首を痛めてしまった。腱鞘炎だった」と明かし、その後もコンディションの調整に苦しんだという。

 1軍から声がかかったのは球宴明け。張り切って合流したが、すぐに2軍行きを通達された。「投手が足りないから上げると。入れ替えはお前しかいない。1打席も立てずに昇格から10日間で落とされました」。

 屈辱と怒りで再び2軍に戻ると、和田博実2軍監督の元へ向かった。「もう1軍に呼ばれても行きません。もしチャンスがあったら違う球団でやりたいから練習はします」。トレードを直訴した。

 出番のないまま迎えたシーズン終盤、球団幹部から引退して球団職員への転身を打診された。「スコアラーをやらないかと言われたけど、自分は野球を続けたい、と言った。最後、やり切っていなかったから」。西武“残留”を拒否。かねてから自身に興味を示していたという阪神への金銭トレードが成立した。

阪神で59試合に出場→戦力外も「甲子園は最高だった」

 阪神は1985年に日本一になったが、翌年3位の後は1987年から5年で4度の最下位。「選手が勝利に飢えている感じがした」。立花氏が加入した1992年の阪神は、最後の最後まで、最終的に優勝したヤクルトと激しい首位争いを展開した。

「でも俺は全くヤクルト戦で打てなかったんだよ。打席の半分以上は三振したんじゃないかな。申し訳なかったです」。この年59試合に出場し、戦力外通告を受けた。亀山努と新庄剛志のコンビが躍動する“亀新フィーバー”に沸いたシーズンだった。

 わずか1年だったが、阪神での経験は立花氏の心を打った。「甲子園は最高だったよ。お客さんが野球を知っている感じだった。巨人戦なんか本当に凄かったよ。地鳴りが起きているんじゃないかと思うくらい。西武では味わったことがなかった。あの雰囲気を経験できたことは良かった」。

 西武での1軍昇格を拒否し、トレードを志願して加入した阪神。「意地でもどこかに行きたいと行ってライオンズを出たけど、最後が阪神で良かった」。翌年に台湾球界でプレーし、ユニホームを脱ぐことになったが、日本でのプロ野球生活は十分やり切った充実感があった。

(湯浅大 / Dai Yuasa)

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