乗り気だった巨人の誘いも…部室で聞いた予期せぬ中日“1位指名”「ああそうですか」
都裕次郎氏は1976年ドラフトで中日から1位指名「全く予想していなかった」
滋賀・堅田高校の左腕・都裕次郎投手は、1976年11月19日のドラフト会議で中日から1位指名された。「全く予想していなかったので、びっくりしました」。事前に1位指名を確約した球団はなく「どこの球団も指名したらよろしくという感じだったと思います」。なかでも中日は完全に想定外。敏腕で知られた法元英明スカウトが担当だったが、都氏は「見に来られていたことも知らなかったし、会ったこともありませんでした」と明かした。
高校3年夏の滋賀大会はまさかの初戦敗退に終わった都氏は進路について「必ずプロ野球選手という意識はあまりなかったですね。大学か社会人で、プロは指名されたら考えようかという感じでした」と話す。「大学は同志社のセレクションに行きました。入学できるかどうかはわかりませんでしたけどね。社会人からも誘いはそこまでなかったですけど、自分としては京都のチームに、って思ってはいました」。
とはいえプロも「10球団くらいは挨拶にきていた」という。幼い頃から巨人ファンで王貞治選手のファン。それは高校当時も変わらず「巨人のスカウトの方がブルペンで投げている時にボソッと『どうや、来ないか』みたいな感じで言われたことがあったんです。そう言われたら、その気になりますよね。気持ちが未熟ですから」。だが、その巨人も含めて1位指名はもちろん、指名の確約をする球団も「どこもなかった」そうだ。
「何球団かのスカウトの方からは“指名します”じゃなくて、プロに入った時の心構えみたいな説明を受けました。キャンプに入ったらきついから、指名した場合はちゃんとトレーニングをしておきなさいよとか……。クラウンライター(現西武)のスカウトが熱心だったとは聞きましたが、どこに指名されたとしてもよくて3位くらいかなって思っていました」。それだけに1位指名には驚いた。
“全体2番目のドラ1”…担当スカウトとは指名まで面識がなかった
当時のドラフト会議は12球団が予備抽選、本抽選で指名順を決定するやり方。1番クジを引いたヤクルトは長崎海星高校の剛腕で、怪物の意味合いで「サッシー」と呼ばれた酒井圭一投手を指名。中日は2番クジで都氏を指名した。「あの時は部室でご飯を食べていたんです。そしたら担任の先生が来て『今、ヤクルトが酒井投手を指名して、その次に中日が君を指名したよ』と、あまりにも冷静に言うから『ああそうですか』って最初は特に感動もなかったんですけどね」。
時間が経つにつれて「全体2番目のドラフト1位」という重みを知った。「学校の視聴覚教室に連れて行かれると、記者の方が集まっていたのにびっくりしました。いつの間にこれだけ集まっていたんだろうって思いましたね。会見では全体2番目ということについても聞かれましたが『うれしいです』としか言えなかった。それまでインタビューとかあまりされたことがなかったですからね。何もしゃべれませんでした」。
中日からの指名は全く予想できなかったという。担当の法元スカウトとはそれまで一度も面識がなかった。「自分がいない時に家に来られていたのもしれませんが、自分は会ったことがなかったし、中日が来ていると知らされることもなかったんですよ」。中日のイメージも「あくまで巨人の対戦相手として見ていただけ。三沢(淳)さんは、よく王さんにホームランを打たれていたので知っていましたけどね」と、その程度だった。
「法元さんは自分が実際に投げているのを見たのは1試合か2試合みたいです。よくそんなんでドライチで指名したと思いますよ」と都氏は話すが、ちょっと見ただけでも指名したくなる逸材だったということも間違いない。「指名されればどこでも入るつもりだった」だけに入団交渉もスンナリ。ドラフト前は思ってもいなかった名古屋生活。ここから2023年までの長きにわたるドラゴンズでのプロ野球人生がスタートした。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)