強豪校に進学も病院通いの日々 致命的な課題…裏方で過ごした1年「凄いところに入った」
金石昭人氏はPL学園に進学も当初は体力不足「貧血気味でした」
広島、日本ハム、巨人の20年間で通算72勝80セーブをマークした野球解説者の金石昭人氏は、プロ野球歴代最多400勝の大投手で「カネやん」の愛称で親しまれた伯父の金田正一氏(元ロッテ監督)による“特別推薦”のおかげでPL学園(大阪)に進学できた。しかし、強豪校は想像を遥かに超えるレベルだった。
「最初は『凄いところに入れてもらえたな』と喜んでいたのが、『凄いところに入っちゃったな』に変わりました」
1976年の春。甲子園への夢いっぱいで臨んだ金石氏だったが、チームの面々を見て「やっていけるのかな」と不安にかられたという。PL学園に入学する野球部員は、全国津々浦々に張り巡らされたスカウト網のお眼鏡にかなった猛者ばかり。その中で鍛え上げられた先輩は言うまでもなく、同じ1年生の仲間が醸し出す“オーラ”にも圧倒されていた。
同期は西田真次投手(後に真二=元広島)、木戸克彦捕手(元阪神、阪神プロスカウト部長)、谷松浩之外野手(元ヤクルト)、柳川明弘外野手(後に社会人野球・本田技研監督)らがいた。まさに豪華メンバーが揃っていた。
「もう凄かったです。やっぱり他の人を意識するじゃないですか。大阪で、和歌山で、九州で活躍してきた選手だったとかの噂話を耳にしていますから……。僕の方はと言えば、岐阜の田舎のお山の大将ですからね」
しかも、激しい競争を勝ち抜いていく以前の問題を抱えていた。ランニング等で頭がクラクラッとしたり、足元がふらついたり、息切れもする。「かなり病弱だったんですよ。練習についていけるだけの体力が、まだまだありませんでした」。
「長身」が代名詞の金石氏は、高校1年生の時点で既に185センチ。体重は68~70キロ程度しかなかった。「成長期でした。背だけが高くて、ヒョロヒョロ。だから僕はいつも貧血気味でした」。
PL学園は大阪・羽曳野丘陵に校舎が立つ。広大な敷地には様々な施設が併設されており、病院もある。「僕、何回か入院しましたもん。貧血で」。虚弱体質はなかなか改善されず、チームの練習にフルには参加できない場面が多かった。「グラウンドに水を撒いたり、整備をしたり。最初の1年間は、手伝いみたいなものでしたね」。
グラウンドと病院の往復…PL学園伝統の専属付き人制を免除
結果的に“恩恵”も受けた。まずは、先輩後輩の上下関係から免れた。
当時のPL学園は全寮制。1983年に入学し、「KKコンビ」と称された桑田真澄氏(巨人2軍監督)、清原和博氏(元西武、巨人、オリックス)らが過ごした寮より前の古い建物だった。「僕が3年になった時に新しい寮に移りました。その前の古い寮の頃は、そりゃあもう大変厳しかったですよ」。PL学園は「付き人制」で、「1年は2年、2年は3年の選手に付くんです」。私生活を含めて様々な世話をする役割を担う。
だが、金石氏はグラウンドと病院を行ったり来たり。「そんなんだから人数も時間も合わない。他の同期が先輩に付く中、僕はその時々で誰かをサポートする形でした。僕は誰か1人にきちんと付いたっていうのはなかったんです」。
学校も支援してくれた。野球部長は病院の院長。「先生の家も敷地内にあるのですが、よくそこへ行って食事をしました。体が弱かった僕のために特別メニューを作って頂いてました」。貧血防止のため鉄分をたっぷり含んだレバーにほうれん草、豆類等々。適切な栄養摂取で、金石氏の体に芯が入った。「皆と一緒に練習ができるようになってきたら、もう対等でした」。400勝投手の伯父が見抜いていた素質がいよいよ目覚め始めた。
エースには174センチ左腕の西田氏が君臨していた。その陰に隠れつつ、金石氏も2年の春季大阪大会では決勝の浪商戦で先発し、優勝に貢献。相手の4番は1学年下の「ドカベン」こと香川伸行捕手(元南海、ダイエー)で、ノーヒットに抑えた。3年の春季大阪大会の決勝でも城東工に惜敗したものの、完投した。
「大事な試合は全部、西田。彼は素晴らしかった。僕は甲子園に関係ない大会では結構、投げさせてもらってましたね」。謙遜する金石氏だが、192センチにまで伸びた身長と共に実力もどんどん成長していった。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)