263球の熱投も…監督に交代直訴「勝たなくていい」 体調最悪も却下、記憶ない甲子園
工藤一彦氏は高3の春季関東大会を欠場…おたふく風邪で約1か月入院した
263球の大熱投だった。元阪神投手の工藤一彦氏は土浦日大3年の1974年、春夏連続で甲子園にエースとして出場した。夏は原辰徳内野手(元巨人)が1年生レギュラーの東海大相模(神奈川)と、初戦の2回戦で激突。延長16回の死闘の末に2-3でサヨナラ負けを喫したが、実は体調が万全ではない中で投げ続けた結果でもあった。「俺の中では、とにかく投げるのを早くやめさせてくれって思いだった」と壮絶な舞台裏を明かした。
1974年、工藤氏は土浦日大のエースとして春の選抜に出場した。1回戦は新居浜商(愛媛)に3-1で勝ったが、2回戦では、この大会優勝の報徳学園(兵庫)に1-2で惜敗。初めての甲子園は2回戦敗退で終わったが、その後の春の茨城大会ではさらに剛腕を見せつけた。準決勝の日立一、決勝の土浦三で、いずれも2-0。工藤氏は2試合連続完封で優勝を決めた。だが、続く春の関東大会は初戦で身延(山梨)に5-9で敗れた。
「その関東大会に俺は出ていない。おたふく風邪にかかって入院していたので投げられなかった」と工藤氏は話す。「茨城大会で優勝して寮に帰ったら、下のヤツがおたふくにかかったと聞いて、廊下からちょっと顔を出しただけなんだけど、感染したのは俺だけ。次の日から体調がおかしくなった。監督に田舎に帰れって言われて実家に戻ったけど、うなされて……。病院の先生に来てもらったら“これは大変だ”と土浦の大きな病院に行って、即入院だった」。
非常に重い病状だったという。「医者は『なんでこんなになるまで』って。脊髄から注射打たれて……。『危ない』って言われたくらいだった」。春の関東大会で投げるどころではなかったし、夏の茨城大会も難しい状況だった。だが、工藤氏はそこから奇跡的に復活した。「みんなが『工藤が無理やから、夏の甲子園を諦めよう』って話になったと聞いて、先生に『どうにかして退院させてほしい』って頼んだ」。それでも入院生活は1か月に及んだという。
「退院したのは夏の大会のちょっと前くらいだった。腹筋、背筋、何やっても筋肉なんてつかない。体力もなかったけど、とにかく必死だった。そんな俺の姿を見て、みんなが『絶対俺たちが打つから。コールド勝ちにして、お前の負担を少なくするから』って言ってくれた」。夏の茨城大会、2回戦から登場の土浦日大は佐川を10-0の大勝発進、3回戦も水戸一に12-1と圧勝した。「本当に打ってくれたんだよ」。仲間の援護を受けて工藤氏も奮起した。
夏の甲子園初戦で東海大相模と対戦…263球の熱闘も延長16回で敗れた
体調が全然戻っていない中、懸命のピッチングを繰り広げた。4回戦は北茨城に4-1、準々決勝は常北に9回2-1でサヨナラ勝ち。準決勝は太田一に7-0で完封勝利もマークした。決勝は取手二・松沼雅之投手(元西武)との投げ合いを制して3-1。工藤氏は脱水症状を起こしながらも9回を投げ切った。「もう根性しかなかったと思う」。登板回避となってもおかしくない状況で仲間の助けも受けてチーム一丸、茨城大会を勝ち上がり、夏の甲子園切符をつかんだのだ。
そして、大舞台でさらに待っていたのが東海大相模との死闘だった。1974年8月12日、大会第4日の第2試合。工藤氏の体調は戻っていなかった。茨城大会同様に、気力でマウンドに上がった。「東海大相模とは、俺が入院中だったかな、練習試合をやってボロボロに点を取られて負けたけど、みんなは『お前が投げたら負けることはない』って言ってくれていた。確かにあとちょっとだったし、勝てると思ったんだけどね」。
6回裏1死二、三塁で1年生5番打者の原辰徳に中前タイムリーヒットを許して1点先行されたが、土浦日大打線は7回表に同点、8回表には荒川俊男捕手(元巨人)が東海大相模先発の下手投げ・伊東義喜投手からレフトスタンドへソロアーチを放って、勝ち越した。2-1で迎えた9回裏は2死走者なし。勝利まであと1人だった。「あそこから追いつかれたんだもんな、ヒットを打たれて、盗塁されて……」と工藤氏は何とも言えない表情で振り返った。
2死二塁から同点打を浴びて延長戦に突入。そこからはさらなる地獄だった。体調不安に加えて、夏の暑さが容赦なく襲いかかる。さすがの工藤氏も限界を感じ取ったという。「監督に直訴したんだよ。代えてください、もう投げられない、体が持たないってね。でも代えてくれなかった」。延長13回表1死二、三塁で工藤氏が打席に入ったが、スクイズ失敗。「外されたんだけど、もう体力がなくてボールに飛びつけなかった。ジャンプもできなかったんだよ」。
延長16回裏、1死満塁からサヨナラ打を浴びた。3時間27分の激闘、工藤氏の263球目だった。東海大相模は先発・伊東投手から1年生左腕・村中秀人投手の継投だったのに対して、土浦日大は工藤氏が最後まで1人で投げ切った。「9回に追いつかれた時もショックというより、正直、俺の中では早く終われって思っていた。もう勝たなくてもいいから、とにかく投げるのをやめさせてほしいってね。その時からもうフラフラだったから」。
ベストの体調で臨んだ茨城国体で優勝「勝って当たり前くらいの気持ち」
投球内容は覚えていないという。「普通ならあんなボールを投げたとかわかるけど、あの時は263球だったということだけだね。悪いけど原辰徳がどうだったかとかも、全く記憶にない。水を飲んだら駄目だったけど、もう飲んじゃえって思ってもすぐ2アウト。飲む暇もなかった。そんな思い出しかない。宿舎に戻ってからはクーラーの効いた部屋で寝かせてもらった。寝かせてくれって頼んでね。もう起きていられなかったから。鏡で見たら顔も変わっていたよ」。
おたふく風邪で離脱していなければ、ボールの勢いなどは違っていたことだろう。「あの時の俺は、噂された工藤の姿ではなかったと思う」。ただし、当時は自身の口から体調不安の事実を一切言わなかったという。「そういうことを言われるのが好きじゃなかったからね」。今だからこそ、赤裸々に話せるが、当時は壮絶な状況で投げ抜きながらも、表向きは強がっていた。それが男の意地でもあったようだ。
1974年秋には茨城国体が開催された。夏の甲子園2回戦敗退の土浦日大は開催県枠での出場で見事に優勝を果たした。決勝では夏の覇者で土屋正勝投手(元中日、ロッテ)擁する銚子商(千葉)を撃破した。工藤氏は準々決勝の高岡商(富山)戦、準決勝の平安(京都)戦、決勝の銚子商戦と3試合すべて2-1のスコアのオール完投で頂点をつかんだ。「あの時は体調が万全だったからね」と笑みを浮かべた。
「こんなことを言うのもおかしいけど、高校3年間でベストで臨めたのは、国体だけ。プレッシャーもないし、好きなところに投げられたしね。勝って当たり前くらいの気持ちで投げていたよ」。マウンドに立てたのが不思議なくらいの状態だった夏とは、それこそ天と地ほどの差があったわけだ。「夏の甲子園に出た時も俺の体調がよかったら、どうだっただろうね。ほんとそうだよな」。過酷すぎた50年前の夏を思い出しながら、工藤氏は少し悔しそうに話した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)