強豪校に内定も「奈良には来るな」 急遽変わった進路…口説かれて決めた「断っていた」進学先
牛島和彦氏は天理に進学予定も「奈良には来るな」の言葉で翻意
元中日、ロッテ投手の牛島和彦氏(野球評論家)は1977年、浪商に進学した。“ドカベン”香川伸行捕手(元南海)との黄金バッテリーが誕生したが、当初は「浪商に行くつもりはなく、ずっと断っていた」という。「天理(奈良)に行くことが、ほぼ決まっていたんです」。それがひっくり返って、浪商に進路変更となったのは「奈良には来るな!」の声があった上に、巨人のレギュラーで浪商OBの高田繁内野手から口説かれたからだった。
1976年、大阪・大東市立四条中3年時の大阪大会で牛島氏は1回戦完封、2回戦完全試合の快投を見せた。香川捕手らを擁した強豪・大体大付属中には敗れはしたものの、延長13回の激投で一気に注目を集め、高校進学を前に「あちこちから誘われました」という。そんな中、優先的に考えたのは「どうせ(高校野球で)しんどいことをするんだったら、甲子園に行けるところがいい」。そこで浮上したのが天理だった。
「ウチのお袋のお姉さんが奈良にいて、僕の5つ上のいとこも郡山(奈良)で甲子園に出ていたんです。そこの家もあるから奈良で、ってなって、たまたま天理高、天理大に行った知り合いもいて、セレクションを受けて、天理に行くことが決まっていたんです」。それが変わったのはいとこの出身高、郡山の森本達幸監督の言葉がきっかけだった。
「『奈良には来るな』みたいに言われたんです。自分たちが甲子園に行けなくなるからって。いとこのつながりで(森本)監督のことは僕も子どもの頃から知っていたんですけど、そんな話になって、じゃあ天理はやめときますってなったんです」。それでもまだ浪商に行く気にはなっていなかった。「あの頃の浪商は低迷していましたからね。ずっと断っていたんですよ」。それでも浪商サイドはなかなか諦めなかった。
浪商OB・高田繁から直々の誘い「浪商に入ってくれ」
「学校側は(大体大付属中から浪商に進学する)香川と山本(昭良内野手、元南海)、それに僕とで3年後に強いチームを作ろうみたいなことを言っていました。でも、そのイメージが湧かなかったし、僕はそんな自信もなかったんですけどね」。その流れが変わったのは浪商関係者との大阪市内での食事の席だ。「12月くらいにご飯を食べようという話になって行ったら、高田さんがいて『牛島君、浪商に入ってくれ』と言われて『わかりました』ってなったんです」。
浪商OBで巨人レギュラーのスターに直接、口説かれた形。牛島氏は思わず首をタテに振った。拒み続けていた浪商進学を、一転して決めたのだった。そこからは完全に気持ちも切り替わった。やる気にもなった。「当時、3月半ばくらいに中学の卒業式があったんですが、それが終わったら、もう浪商の練習に参加していました」。やはり並の1年生ではなかったのだろう。「入学前から練習試合にも投げていました」という。
実際に牛島、香川、山本の浪商1年生トリオは公式戦でもいきなり力を発揮した。入学してまだ数日しか経っていない中で春季大阪大会に出場。「1回戦で北陽に当たったんですが、3-2で勝った。僕が完投して、香川と山本がホームランを打ったんです」。北陽は1970年選抜準優勝校で、1976年選抜でも8強入りしていた。そんな強豪校に快勝して「そこから盛り上がった感じもありましたね」。その大会の浪商は準優勝だった。
1977年夏の大阪大会は5回戦で八尾に1-2で惜敗した。「エースは2つ上の人で、僕は背番号10でしたが、八尾との試合には先発で投げました。1年生なので、投げろと言われれば投げるだけだったのでね」と振り返ったが、着実に力をつけていった時期。浪商の牛島-香川のバッテリーはここから、さらに注目を集めていくことになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)