1軍昇格を拒否「俺、やめますわ」 冷遇で折れた心…最下位での打診に「腹立った」
工藤一彦氏は1990年限りで引退…阪神一筋16年のプロ人生だった
元阪神投手の工藤一彦氏は、1990年シーズン限りで現役引退した。土浦日大から1974年ドラフト2位で入団し、タイガース一筋16年のプロ野球人生だった。ラストイヤーは4月下旬から2軍調整が続き、9月に1軍昇格の知らせが来たが、拒否してユニホームを脱ぐことを決めた。「今さら上にいって何するのって思った。『俺、やめますわ』って言った」。先発もリリーフも「ノー」と言わずに投げ続けた工藤氏だが、最後は「ノー」と言って自ら区切りをつけた。
中村勝広氏が阪神監督に就任した1990年シーズン、工藤氏は開幕2戦目の4月8日の広島戦(広島)に1-6の7回途中で登板、2/3回を投げて1失点。開幕3戦目の4月10日の巨人戦(甲子園)も0-6の3回途中から登板し、1回1/3を無失点に抑えた。いずれも負け展開でのリリーフだった。次の登板は4月20日の巨人戦(東京ドーム)。1-9の5回から登板して2回を4失点で降板。その後、2軍落ちとなった。
3試合投げたうち、2試合目まではそれなりの投球だったが、最後の4失点だけで判断された形だった。「ベテランはもういらないってことだったんじゃないかな。好き嫌いで、そうなった感じがした」。それでも諦めることはなく、1軍再昇格の日を信じて2軍で調整した。「でも、1軍の(大石清)投手コーチが見に来ることもなかったし、なんとなくわかってくるやん。見えるやん」。ただし、そんな状況でも「2軍では抑えをやっていた」という。
工藤氏は肘痛不安とも闘っていただけに「中継ぎとか、たまに試合に投げるとかでいいやん、何で抑えって思ったよ、他にいるやろってね。だけど、また『お前しかいない』とか言われて……」。1軍で「ぞうさん(工藤氏の愛称)頼む」と言われればどんなポジションでも投げたように、2軍でも与えられた仕事をこなしたが「長年やってきたのに、分かってないのかなって思った。肘の状態を一度も聞かれなかったからね」。時の経過とともに気持ちは滅入るばかりだった。
1軍昇格の打診を拒否「もう俺は上がらんでいい」
そして、引退を決意する9月6日のウエスタン・リーグ最終戦(対近鉄、甲子園)を迎えた。「最後の2軍戦前に誰だったかに『1軍に上がって練習に参加してくれ』と言われたので『いや、いいよ。もう俺は上がらんでいい』って言ったんだよ。『何でですか、1軍から言われていますよ』と言ってきたけど『もういいから』ってね」。それまでは頼まれたことに「ノー」と言わなかった右腕が、最後は1軍昇格を拒否して、ユニホームを脱ぐことを伝えた。
「もともとは辞める気なんてなかったし、早めに1軍が呼びに来ていたら、そういうふうには思わなかったかもしれん。でも2軍の最後やで。今から1軍に上がって何するのって思った」。当時の阪神は8月に6勝20敗と大きく負け越すなど、最下位に低迷していた。「それまで何もなくて、最後に上と言われて、腹も立ったよ」。これには周囲もざわついたという。
「(2軍監督の)石井晶さんとかもきて『工藤、どうしたんや』って。だけど、石井さんにも『もう今日の試合で終わりにします。俺、やめますわ』と言ったよ」。“考え直せ”という同僚もいたそうだが、気持ちは変わらなかった。9月27日の本拠地・甲子園での1軍最終戦(対広島)で引退登板することになった。先発マウンドに上がり、阪神のユニホームを着た長男と次男がバッテリーを組んで始球式を行った後、1イニングを投げた。
いきなり3連打を浴びたが、広島の4番・小早川毅彦内野手を遊ゴロ併殺打に打ち取るなど、打者5人に3安打1失点。「頼むから早くアウトになってくれって思ったよ。小早川がうまいこと打ってくれたけど、締まりがなかったね」。工藤氏のタイガース一筋16年の現役生活は、こうして幕を閉じた。通算成績は308登板、66勝63敗4セーブ、防御率4.04だった。
先発でもリリーフでも、チームが困った時に黙々と投げ続けた「ぞうさん」こと工藤氏は「最後の方は自分が思っていたピッチングをできなかったし、尻切れトンボだった。今でも何か踏ん切りがつかないけどね」と話す。身を削って投げても低かった年俸査定なども含めて、いいことは少なかったかもしれない。だが、エースだった時期も含めてタイガースの歴史に名を残したのは間違いない。
岡田阪神へ「連覇も3連覇もやってほしい」
引退後の工藤氏はユニホームこそ着ていないが、評論家として野球界に携わり続けている。「自分がやってきた野球と、これから目指す野球。野球についてはずっと勉強してきた。67歳で年はとったけど、頭の中は今も昔と全然変わっていないよ」と笑顔で話す。もちろん、古巣・阪神のことは絶えず注視しているし、かつての同僚で、1歳年下の阪神・岡田彰布監督は気になる存在だ。
「岡田はすごく苦労してきたよね。前の阪神の監督の時もそうだし、オリックス監督の時とかもね。そういうのもあってなのか、変わったね。今はどっしりとしている。慌てることがないよね。全然びくともしない。何があっても、じーっと耐えて、耐えて。すごくいいんじゃないかな。野球に対する考え方も前向きだしね」。昨年のリーグ優勝&日本一はOBとしてもうれしかったという。「難しいかもしれないけど、連覇も3連覇もやってほしいね」とエールも送った。
継続中の野球人生。工藤氏は「一番、感謝しているのはやっぱり母親だなぁ」と母・せきさんのことを口にした。「俺のことを大事にしてくれたし、気を許せる人。何歳になっても母親は母親なんだよ。今も茨城の実家で姉と妹と暮らしている。昭和5年生まれだから93歳かな」。いつも母に見守られているからこそ、今の自分があるとの思いだ。
子どもの頃は体が誰よりも大きかった。足が抜群に速かった。野球をやり始めたら、速い球を投げることができた……。そんな少年時代、土浦日大のエースとして甲子園でも激投した高校時代、16年のプロ生活、引退後の評論家活動、工藤氏は常に精一杯、チャレンジしてきた。それはこれからも変わらない。「機会があれば子どもたちに教えたいとか、いうのもあるしね」。まだまだやることはいっぱいある。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)