打率3割より「大事なものがある」 快挙目前で戦線離脱…1年越しに果たした“約束”
打率.299、シーズン残り2試合で離脱…療養中だった弟の元へ向かった
元中日外野手の田尾安志氏(野球評論家)は、プロ6年目の1981年に初の打率3割(.303)を達成した。いよいよバット術が覚醒し、安打製造機ぶりを発揮していくことになるが、これは前年(1980年)の「思い」を抜きには語れない。シーズン終わりに病気療養中だった弟の吉兼さんが24歳の若さで亡くなった。その時に誓っていた。両親にも宣言していた。「3割なんか、いつでも打ってやるから!」。有言実行だった。
プロ5年目の1980年、田尾氏は開幕1、2戦目こそ代打での出場だったが、3戦目の4月8日の阪神戦(ナゴヤ球場)に「1番・右翼」でスタメン出場して4打数3安打1打点。その後、レギュラーポジションを獲得した。シーズン前半を終えて打率.306。辞退選手の補充ながらオールスターゲームにも出場した。夏以降もバットの勢いは衰えず、9月終了時点で打率は.313と3割をキープしていた。
しかし、10月に少し調子を落とし、10月19日のヤクルト戦(静岡・草薙)のダブルヘッダー第2試合で3打数無安打に終わったところで、打率.299とついに3割を切ってしまった。シーズンは2試合を残していたが、ここで田尾氏はチームから離脱した。「親戚の方から電話があって、弟の病状がよくないことを『知っているのか』って言われて『えっ』ってなった。そこで初めて知ったんです」。
田尾氏はすぐ両親に電話したという。「親に聞いたら『そういうふうになっている』と言うので『何で電話してこないんだ』と言ったら『3割がかかっているから』って……。『3割なんかいつでも打ってやるから!』と言いました。3割がどうとかよりももっと大事なものがあるやろって話。それで球団にお願いして(残り2試合を)休ませてもらって病院に向かったんです。でも行った時には延命措置をしているだけで、もう駄目でした」。
1981年に初の打率3割到達「絶対打たないといけないという気持ち」
迎えたプロ6年目の1981年。田尾氏は開幕から絶好調だった。プロ4年目に花粉症になり「オープン戦の頃が最悪で、涙は出るわ、鼻水ズルズルでティッシュ一箱が一晩でなくなるような状況だった」といい、それもあって春先は調子が悪かったが、この年は違った。4月に打率.450、3本塁打、13打点の成績を残してセ・リーグ月間MVPを受賞した。「何でかなって思ったくらい。いい波でスタートできたんですよ」。
5月22日終了時点でも打率.400をマーク。その後、5月25日の広島戦(広島)から8試合連続ノーヒットと反動がきたが、それでも打率は3割3分台。スランプ脱出の際は「朝、起きた時に、あれ、今日は打てるなって思ったんです。バットを持っていたわけではないんですけど、何かバットヘッドがすごく近くに感じたんです。打てない時ってバットヘッドを感じないんですよね。それがフッと感じた。そしたらゲームでもヒットが2本出たんですよ」という。
甘いマスクに加えて、構える時にバットをくるくる回すことから「円月打法」と呼ばれるなど田尾氏は、人気も急上昇。前半を打率.337で終え、オールスターゲームにはファン投票で選出された。「バットを回していたのは無意識で、いつからやっていたのかわからない。人から言われて気付いたくらいだったんですよ」と田尾氏は言うが、少年時代に田尾ファンだったイチロー氏(マリナーズ会長付き特別補佐兼インストラクター)も、その構えを参考にしたと言われている。
6年目の田尾氏は9月に入ってからバットが湿りだした。8月終了時には打率.324だったのが、10月3日時点では.299となった。残りは本拠地ナゴヤ球場での3試合だけだったが、この土壇場でまた力を発揮した。10月4日の阪神戦は4打数3安打で.303と3割台に復帰。10月10日の大洋戦も2打数2安打で.306とした。シーズン最終の10月11日の巨人戦は4打数無安打に終わったものの.303でフィニッシュだ。
ついに成し遂げた打率3割。「前の年に親にああ言った手前、絶対3割を打たないといけないという気持ちがより強くなっていたんでね、ギリギリでしたけど、3割を超えてよかったなぁって思いましたよ」。弟・吉兼さんとの思い出も駆け巡ったことだろう。田尾氏はこの年から4年連続3割、3年連続ベストナインなど球界屈指の巧打者になっていく。有言実行の6年目が飛躍のきっかけになったのは間違いない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)