左利きなのに「右に矯正」…厳格な父の教え 運命を変えたグラブ、野球人生の“始まり”
救援のみでNPB通算600登板、第1回WBC制覇…藤田宗一氏が語る野球人生
ロッテ、巨人、ソフトバンクで救援ひとすじ通算600試合に登板し、2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本代表の優勝に貢献した藤田宗一氏。身長173センチとプロ野球では小柄ながら、独立リーグを含めて40歳までプレーした。子どもの頃は野球とは異なるスポーツに熱中していたという。
藤田氏は京都府八幡市の出身。少年時代は地元・関西の阪神ファンで、主砲の「掛布(雅之)さんが好きでした」というが、学校の昼休みにキャッチボールをする程度。野球はあくまで友達との遊びの1つという感覚だった。
小学校3年の時のこと。自宅の近くを流れる木津川の河川敷を歩いていると、見たことのない風景に心を奪われた。同じ年頃の子どもたちが競技専門のオートバイに乗り、坂や急カーブなどの難関が築かれたダートコースに挑戦していた。マシンを巧みに操ってジャンプするなど華麗なテクニックを披露している。保護者と思しき大人から「乗ってみるかい」と誘われた。
まずは岩などの障害物に対し、地面に足を付かずにクリアするなどの「トライアル」で基本を習得。そしてスピードを争う「モトクロス」にステップアップする程に虜になった。「最初はやっぱり、たくさんこけました。バイクを制御するには体幹の強さが必要ですし、バランスも上手に取らないといけない。振り返ると、あれで鍛えられていた。野球につながったのかもしれません」。結果的に後にプロ野球で投げまくる鉄腕の基礎となった。
野球かモトクロスか決断迫った父…引っ張り出した溶接材
藤田少年に、もう1つの関心が加わったのは小4の終わり。近所の1学年上の友人が軟式野球チームを作った。「人がいないから来ないか」と声を掛けられた。「軽い感じで誘われて、その流れで自分も『じゃあ、行くわ』と」。週末の練習は朝から夕方まで丸一日。メンバーは9~10人しかいなかった。「ちょうど試合に出られるくらい。僕は外野を守って、たまにピッチャー。みんな知っている人間でワーワーやるのが、ただただ楽しかったですね」。
藤田氏はサウスポー。なのに当初は右投げ用のグラブを着用していた。当然動きは、どこかドタバタする。監督から「何でお前はそんなに下手くそなんだ」と問われ、「僕、実は左投げなんです」。ボールをビューンと投げて証明した。納得した監督は「じゃあ、何で逆のグラブを使っているのか」と再度質問。「いや父が……」と説明を始めた。
父の繁和さんは「怖かった」存在。「あの時代はまだ、左利きは箸とかを使う時には右に矯正させられていた。躾(しつけ)ですね。グラブも『これでやるんやぞ』と右投げ用を渡されました」。監督と父親は知り合い。質問を受けた日に監督が連絡し、その日の内に本来の利き手のグラブを父が買ってくれた。「初めての左投げ用。すっごい嬉しかったのを今でも覚えています」。
モトクロスと野球の両方ともが面白くてたまらない。中学校への入学前、繁和さんは「中途半端になるな。どちらを続けるのか選べ」と“二者択一”を迫った。藤田少年は野球を選んだ。「球拾いとかだけだったら、モトクロスをやるって言ったかも。試合に出させてもらってたから。たまたま野球が楽しい時期だったのかなぁ」と懐かしむ。
息子の決断を確認するや、鳶(とび)職人だった繁和さんは仰天の行動に出た。溶接材を引っ張り出してきて、手慣れた様子でバイクを切断したのだ。「ハンドルの所をパンと……。もともと野球を選ぶなら、処分するという話ではありました。でも、本当にやるとは」と驚いた。野球の道への覚悟が決まった。
あれから40年近い年月が経った。藤田氏は今は亡き父に思いを馳せる。「バイクって、転倒すると危ないじゃないですか。中途半端な気持ちで乗って怪我するよりは、バイクがない方がいい。親父なりに考えていてくれていたんだと感じます」と感謝している。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)