ロッテ移籍で知った現実「拍手もパラパラ」 中日時代と一変…戸惑った“セパの格差”
3冠王3度の落合とトレード…牛島和彦氏はロッテ初年度にタイトル獲得
想像を絶する世界だった。1986年オフに牛島和彦氏(野球評論家)は中日からロッテにトレードで移籍したが「いい勉強、いい経験をさせてもらいました」と言う。中日時代は本拠地・ナゴヤ球場での観客の声援によってマウンドで興奮状態になったが、観客が少ないロッテ本拠地の川崎球場では自分で気持ちを高めないといけなかった。そんな慣れぬ環境で「何かひとつタイトルを取りたい」と奮闘した。その通り、移籍1年目にうれしい初タイトルを獲得した。
1987年シーズン、ロッテ移籍1年目の牛島氏は「絶対成績を残さないといけないと思っていた」と言う。「そうしないとトレード失敗になるじゃないですか。(ロッテも中日も)お互いによかったなぁ、みたいにしないといけないって考えていました」。トレードの相手はパ・リーグで3冠王3度の落合博満内野手。それだけに「向こうは3つのタイトルを取れますからね。僕も何かひとつ取りたいと思っていました」。
その結果が41登板、2勝4敗24セーブ、防御率1.29。牛島氏は26セーブポイントで自身初タイトルとなる最優秀救援投手に輝いた。一方の落合が中日1年目に打率、打点、本塁打の打撃3部門で無冠に終わったなかで、意地を見せた形にもなった。だが、この年に落合がタイトルを逃したことについては「ホントですか。それはあまり記憶がないですね」という。「自分に対してのプレッシャーじゃないですけど、とにかく自分がって考えていましたからね」と振り返った。
なにしろ、初めてのパ・リーグは戸惑うことの方が多かった。「当時のロッテってお客さんが入っていませんでしたからね。“ピッチャー村田に代わりまして牛島”と言われたって、拍手もパラパラで少ないわけですよ。ナゴヤ球場の時はウォーってなったじゃないですか。お客さんの力を借りて興奮状態を作れたんですよ。でもロッテではそれがないから自分でそういう状態を作ってマウンドに行かなきゃいけない。そういう違いはありましたね」。
川崎球場のブルペン待機場所はスタンドの中…“井端弘和少年”との遭遇
そんな中で牛島氏は快投を続けた。開幕4戦目の4月15日の南海戦(大阪)に3-1の9回に登板し無失点で締めて移籍後初登板初セーブ。ロッテ・有藤道世監督の監督初勝利に貢献して、自身も勢いに乗ってセーブを積み重ねた。古巣本拠地・ナゴヤ球場への凱旋となった6月12日からの近鉄3連戦では3試合連続セーブ。その年の15登板目となった6月14日の同カードで自責点1がつくまで防御率は0.00だった。
「6月くらいまで0.00が続いていたのは覚えていますよ。チームが逆転したりとか、いろいろありましたからねぇ……」。ナゴヤ球場での2戦目(6月13日)はロッテ打線が1-7の9回表に8点を奪って近鉄を大逆転。「ああ負けたと思ったら、あれよあれよで慌ててスパイクに履き替えて、ブルペンで投げた記憶がありますね」。そんな急きょの登板では2安打を許しながら9回裏を無失点で切り抜けてセーブを挙げた。それも懐かしいシーンになっているようだ。
オールスターにも監督推薦で出場した。第1戦(7月25日、西武球場)では7-4の8回から4番手で登板して2回無失点でセーブをマーク。因縁の中日・落合とは8回2死で対決し、右前打を許した。「(2人の対戦を)周りは騒いでいたのかもしれないですけど、僕はあまり、そういう意識はなかったです。やっぱりいいバッターですからね。さすがにうまく打つなぁって感じでした」。
10月9日の日本ハム戦(後楽園)では、シーズン23セーブ目で通算100セーブを達成。ロッテ1年目から牛島氏は躍動したが、本拠地・川崎球場の思い出としては、こんなことも明かした。「ブルペンでピッチング練習をやって待機する場所がスタンドなんです。一塁側のスタンドの中に囲いが作ってあってね。子どもたちが『ボールください』とか言ってくるので、練習で使ったボールをほーいって上げていたんですけど、その中に井端がいたそうなんですよね」。
元中日、巨人内野手で現在は侍ジャパン監督を務める井端弘和氏は川崎市出身。その少年時代に牛島氏は遭遇していた。「『たくさん、ボールをもらいました』って言っていましたよ」。どこで、どんなつながりができるかなんてわからないし、単なる偶然に過ぎないが、その“関係”も牛島氏がロッテに移籍していなかったら成り立たなかったことではある。「パ・リーグを経験できて野球を見る幅も広がったと思いますよ」。少なくともトレードをバネにしたのは間違いない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)