清原和博は「打つ方は良かった」 大先輩から厳しい指導…高卒スターが直面した“壁”
工藤、渡辺、清原…“新人類”が台頭した1986年
華やかな若手に負けず、存在感を示したかった。弟の雅之氏と一緒にドラフト外で西武に入団し、「兄やん」の愛称で親しまれた松沼博久氏は、アンダースローの先発として112勝をマークした。「目立つためです」。野球評論家として活動する現在までお馴染みのトレードマークの髭を生やした理由を明かした。
時は1986年まで遡る。流行語大賞の金賞の表彰式にプロ野球選手が登場した。西武の工藤公康(元ソフトバンク監督)、渡辺久信(西武GM兼監督代行)の両投手、清原和博内野手(元西武、巨人、オリックス)だ。従来とは全く異なる価値観、行動などを示す世代は「新人類」と呼ばれ、象徴として3人が選ばれたのだ。
工藤、渡辺は20代前半で、ともに高卒1年目から1軍登板を果たしていた。この年の工藤は11勝、渡辺は16勝で最多勝のタイトルを獲得した。PL学園(大阪)で甲子園を席巻した清原はルーキーにして4番を担った。ライオンズは日本一となった。
松沼氏は当時34歳だった。後輩たちの印象を回想する。「やっぱり“新人類”でしたよね。キミヤス(工藤)とナベ(渡辺)は、メチャクチャ明るかった。とにかく物怖じしない。だからエースの東尾(修)さんなんかは、面白がって可愛がってましたね」。ベテラン相手にも、あっけらかんと溶け込んだ。
その頃は「DCブランド」と呼ばれたファッションが流行していた。「結構チャラチャラしていてね。ファッションも凄くお洒落なのよ。僕は真似できるわけじゃないから、相手にしていませんでしたけど。彼らによってチームの人気が余計に出ましたよね」。両者は戦闘服のユニホーム姿から私生活に切り替わるや颯爽と着こなして見せた。
2投手は現役引退後は監督も務め、ともに日本一に導いた。「あれは広岡野球ですよ。どうやったら勝てるとか、どうすると負けるとか。打順の組み方など、どんな作戦を立てたらいいのか。食生活はどうすれば良いのか。そういうのは全部学んでいたと思います」。1985年まで指揮した広岡達朗監督の下、“勝利哲学”も吸収していたと指摘する。渡辺は今季、5月下旬からGMを兼任する形で監督代行に就任。「大変だと思うけれど監督経験があって、日本一にもなっていますから」。OBとして応援する。
監督交代で「好きだった」髭を復活…「目立つためです」
清原は高卒ルーキーでいきなり打率.304、78打点、31本塁打と大活躍し、新人王に輝いた。「物が違いましたね。パワーがあって広角に打てる。打つ方に関しては、何の文句もなかったですね」と舌を巻く。
一方で“苦戦”する姿も目の当たりにしたという。社会人の先輩たちへの挨拶などは、まだまだ不慣れだった。「甲子園の大スターとして入ってきたばかりの高校生でしたからね。辻(発彦内野手)とか平野(謙外野手)とか礼儀に厳しいので、野手陣から結構教えられていましたね。ちゃんと挨拶できるようになっていきました」。
松沼氏は、このシーズンから髭を生やした。「僕は元々、髭が好きだったんですよ。社会人の東京ガス時代も無精ヒゲでした」。入団4年目の1982年の自主トレで「無精ヒゲで参加したらマネジャーから『オイ、兄やん。髭は禁止だぞ』って注意されて、慌てて剃りました」。この年に就任した広岡監督は身だしなみに厳しかった。ただし、広島から途中移籍で加入した高橋直樹投手(元日本ハム、巨人)だけは「ずっと生やしていたから広岡さんも許してました。別格でしたね」と笑う。
指揮官が森祇晶監督に交代して臨んだ1986年。髭を復活させた松沼氏はレギュラーシーズン5勝、日本シリーズ1勝といぶし銀の働きを見せた。「あれだけ『工藤だ、渡辺だ、清原だ』と露出していたら僕は目立たないじゃないですか。だから遠くから見ていても、髭を生やしていれば『あれは兄やんだな』って分かる。それだけでも嬉しかったんですよ」。
プロは成績のみならず、見た目でアピールすることも大事なのだ。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)