衝撃のがん宣告「早くて半年」 激務の伊勢孝夫を襲った“謎の腹痛”「腸が動いてない」

ヤクルトでコーチを務めた伊勢孝夫氏【写真:山口真司】
ヤクルトでコーチを務めた伊勢孝夫氏【写真:山口真司】

伊勢孝夫氏は1996年に近鉄のヘッド兼打撃コーチ就任…度々、腹痛に見舞われた

 衝撃的な告知だった。1996年シーズンから伊勢孝夫氏(野球評論家)は、佐々木恭介監督率いる近鉄のヘッド兼打撃コーチに就任した。ヤクルト打撃コーチ時代に野村克也氏のID野球を学び、中西太氏からは技術指導の極意を教わり、それらを近鉄にも注入しようと動いた。1年目は4位に終わったが、チーム本塁打数146はリーグトップで、「いてまえ打線」も復活させた。だが、このオフに思ってもいない状況に陥った。

 5歳年下の佐々木恭介監督を盛り立て、伊勢氏は奮闘した。東京に家族を残しての単身生活。1963年にプロ野球人生をスタートさせた近鉄で優勝を味わいたい一心で、ヤクルト打撃コーチ時代に身につけたものをフル活用し、伝えていく気構えだった。時間をかけなければいけないこともわかっていたが、まずやれることはやろうと心がけた。

 結果は優勝したオリックスから14.5ゲーム差の4位。それでも少しずつでも前進は感じ取れたようだ。さらにチームを変えるべく、伊勢氏は張り切っていた。だが、そんな1年目のオフに、まさかの状況が待っていた。病に襲われた。「宮崎での秋のキャンプが終わってからでしたね。大腸がんと言われました」。シーズン中から体調が良くない時があったという。「夏頃だったかなぁ。大阪から西武に移動ゲームがあったんですけど、腹が痛くてどうしようもなくてね……」。

 その時は東京・立川で病院に行った。「泊っていたホテルの1階に内科があったんですよ。検査したら『腸がほとんど働いてないです』と言われたんです。で、漢方薬みたいなのをもらって、それをのんで部屋で休んでいたら、薬が効いてきたのか、お腹の調子が良くなったので、遅れて球場に行ったんですけどね。その後はいつも通り。ゲームが終わったらビールを飲んで、飯食ってね。でも、そんな症状が1か月に1回くらいは出るようになったんですよ」。

1997年1月に大腸がんの手術を受け、3月に現場復帰した

 そのたびに薬を服用したが「だんだん、症状が出る間隔が短くなってきたんです。1か月に1回だったのが、1週間に1回くらいになってきて……。宮崎・日向での秋のキャンプの時にも同じ症状になって、酒飲み友達が内科の先生をしながら経営している病院に行ったら『伊勢やん、これは大きな病院に行って検査した方がいい』って。キャンプが終わってから東京の病院で診てもらったら『たぶん、がんでしょ』って柏のがんセンターを紹介されたんです」。

 そこで検査をして「(1997年の)1月のはじめだったかなぁ、すぐ入院してくれって。しばらく絶食で、飯食わしてくれなかったですね。後日『奥さんとご長男を呼んでくれ』となって説明を受けました。『大腸がんです』ってね。『早期ですか』って聞いたら『いやそうじゃない。開けてみないとわからないけど、早くて半年、長くて2年です』と言われました」。そして手術を受けた。「まぁ、腹を切って開けたらほかに転移していなかったんですよ。肝臓も大丈夫でしたね」。

 2月の近鉄サイパンキャンプには当然、参加できなかったが、1997年3月の大阪ドーム開場の際には復帰できたという。「それまでもサイパンの佐々木(監督)からよく電話がかかってきましたけどね」。その年の佐々木・近鉄は3位。チームに再合流後の伊勢氏は、ヘッド兼打撃コーチの職務をこなした。衝撃的な告知を受けた時のことを「えっ、俺あと2年なのって思いましたねぇ」と振り返ったように、精神的にも肉体的にもつらい時期を乗り越えての結果だった。

「そこから8年くらい、最初の頃は年に2回で、その後は年に1回、検査のため、柏の病院に通いました。東京遠征の時にはナイター前とかにね。私の場合、抗がん剤は一切やっていません。『やりますか』って聞かれたけど『いいです』って断りました。やらなくても大丈夫だろうって話だったし、それは本人の希望で、ということだったのでね。腫瘍をとっただけ。それで何とかなりました。今でも生きていますから」。伊勢氏は明るい表情で話した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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