肘痛の次は肩痛…グチャグチャのフォーム「もうわからない」 大乱調で“笑いもの”の屈辱
田村勤氏は3年目に22セーブも…4年目には左肩痛で離脱
怪我→復活→怪我→復活……。元阪神左腕の田村勤氏のプロ野球生活はこの流れの繰り返しだった。プロ2年目の1992年にクローザーとして活躍しながら左肘を痛めてシーズン後半を棒に振ったが、3年目の1993年は6月下旬から1軍復帰し、キャリアハイの22セーブをマークした。しかし、4年目の1994年は序盤に左肩痛で離脱。「全然駄目で、押し出しサヨナラ死球を出した時は『田村・吉本新喜劇』って新聞に書かれたんですよねぇ」と苦笑しながら話した。
左肘痛でシーズン前半だけで離脱したプロ2年目の1992年。田村氏は「現在みたいに情報とか、ケアのしかたとか、いろんなものがあったら何とかなったかもしれませんね」と話す。当時、選択したのは治療しながら、基本線は回復を待つこと。「手術も勧められましたけど、僕はかたくなに拒否しました。あの頃の阪神には手術した後の経過がいい選手が、あまりいなかったんですよ。成功例をあまり見ていなかったというのがあったんでねぇ……」。
現在は手術して復活する選手も多くなったが、当時はまだまだ“メスを入れたら……”と考えてしまう時代。もちろん、手術していたら状況がどうなったか分からないが、田村氏は「他のところを強化しながら、回復を待ちました。反対の筋肉を強化したりね」。左肘痛から復活した3年目の1993年は「キャンプでもそんなに投げられなかったけど、こうしたらいけそうな肘の抜き方であるとか、そういうのをだんだん発見しだしたんです」と言う。
実際、6月下旬に復帰してからは、大活躍した2年目の前半とも遜色ないピッチングを披露した。「むしろ以前よりもちょっとパワーアップしたような感じもありました。あの時は打たれる気がしなかったですね」。中継ぎでの“試運転”を経て、7月11日の巨人戦(甲子園)で復活のセーブをマーク。2-0の7回から登板して2回を無失点、4三振を奪った。7月は4セーブを挙げた。
押し出し死球でサヨナラ負け「散々な結果。もう駄目だなって感じだった」
後半戦はさらに大活躍した。8月は1敗5セーブ、9月は8セーブ、10月は1勝5セーブ。8セーブ目の8月26日の巨人戦(東京ドーム)から17セーブ目の9月29日の横浜戦(甲子園)までは10連続セーブも記録した。3年目は30登板で1勝1敗22セーブ、防御率2.50。虎の守護神として存在感も増した。しかし、またしても……。「3年目の終わり頃には今度は肩に違和感が出てきた」。肘を痛めないように投げたことで肩に負担がかかっていたという。
4年目の1994年は開幕から抑えを務めたが、もはや万全ではなかった。4月は1勝2敗2セーブ、防御率5.14。状態は上向かなかった。「肩が痛いから、痛みが出ないような投げ方とかをやっていって、だんだんグチャグチャになっていった」。5月5日の広島戦(広島)は8-8の9回裏に登板して打者5人に4四死球。最後は押し出し死球でサヨナラ負け。「散々な結果。もう駄目だなって感じだった」。
広島・吉本亮捕手にサヨナラ押し出し死球を与えたことで「次の日の新聞は“田村、吉本新喜劇”でしたからねぇ。やられ方がひどかったから、吉本の名前を使ってそうなったんでしょうけどね……」と田村氏は今でこそ苦笑しながら振り返ったが、当時は悔しかったに違いない。「吉本は、その後(1998年から)阪神に移籍してきたじゃないですか。仲良くさせてもらいましたよ。そういうこともあったのでね」。
結局4年目は5月半ばに離脱した。リハビリ&2軍調整を経て、シーズン最終戦の10月6日の中日戦(ナゴヤ球場)で1イニングを投げたが、1失点。本調子には程遠かった。5年目(1995年)は1軍登板なし。「2軍では投げたけど、しっかり結果が出なかったと思う。もう投げ方がわからなかったですもん。どうやって投げたらいいんだろうって思っていました」。だが、これで終わらなかった。田村氏はこのどん底からもまた這い上がって行く。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)