4月降格で悟った“終わり” 戦力外から再起も…麻痺した感覚「指から離れない」
田村勤氏は2002年限りで引退…イップス状態だったという
ついにその時が来た。阪神の元守護神・田村勤氏は2002年、オリックスで12年間の現役生活の幕を閉じた。ラストイヤーは4月に2試合を投げただけで2軍落ち。次に1軍マウンドに上がったのがシーズン最終戦で、打者1人に投じるプロ初先発でピリオドを打った。何度も怪我から立ち直ってきたが、もう限界だった。「最後の年はボールが指から離れないとかイップス状態でした」と明かした。
2000年に阪神から戦力外通告を受けたが、現役にこだわって仰木彬監督率いるオリックスに入団した。移籍1年目の2001年は39登板で0勝1敗、防御率4.74。5月に1軍に昇格してショートリリーフで8試合連続自責点0など結果も残したが、オリックス監督が駒沢大の先輩・石毛宏典氏になった移籍2年目の2002年は思うような投球ができなかった。
開幕3、4戦目の4月2、3日の日本ハム戦(東京ドーム)に、いずれも左打者の小笠原道大内野手に対して、ワンポイントで起用された。「2試合目はボークを取られて、小笠原には四球。その日が終わったら2軍と言われました」。いつもの姿ではなかった。「もうイップス状態でした。ボールが指から離れないとか、どっかで麻痺していて……。もう今年で終わるなって思っていました」。
2軍でもやれることはやったという。「そういう状態からも逃げずに、最後も前のめりで終わりたいと思って、2軍監督の中尾(孝義)さんや2軍投手コーチの酒井(勉)さんには使える場面があったらどんどん使ってくださいと言いました。あの時、オリックスの2軍はピッチャーが少なかったんでね。向かっていく姿勢くらいは見せられると思った。ボールも全然行ってなかったし、120キロくらいの球でしたけどね」。
現役ラスト登板で初先発…打者1人を三振も「とにかく届いてくれって感じ」
シーズン終盤に戦力外通告を受けた。最後の1軍マウンドは2002年10月14日の日本ハム戦(グリーンスタジアム神戸)。シーズン最終戦に先発した。阪神で守護神を務めるなど、リリーフ稼業1本で突き進んできたプロ生活。12年目のラスト登板でのプロ初先発だった。「石毛さんのはからいです。サヨナラ登板もね。でも、その時の僕はもう投げることで精一杯でしたけどね」。
打者1人。日本ハムの1番打者・森本稀哲外野手が相手だったが、マウンドでは余裕がなかったという。「ブルペンでボールが離れなくて横に投げたりしていたんですよ。だから、とにかくキャッチャーまで届いてくれって感じ。ホントだったらマウンドで感慨深げとかになるんでしょうけど、そんな浸っている場合じゃなかった。それくらい心配だったんです」。
森本を三振に仕留めてマウンドを降りたが「森本がボールを見逃したら、相手の日本ハムのベンチから“何やっているんだ、振れ! 馬鹿野郎!”って声がとんでいましたね」と田村氏は苦笑する。「まぁ、娘が花束を持ってきてくれたのでね。一応、僕が野球選手だったことを見せられたのはよかったかな。知り合いの人もいっぱい見に来てくれたので、投げ終わったらユニホームのままスタンドに上がって挨拶した。あれってオリックスだからできたんじゃないですかねぇ」。
プロ通算成績は287登板、13勝12敗54セーブ、防御率2.90。「終わった時は、もう野球ができない、2度とできないという寂しさはありましたね」と話す。「でも、あれ以上やったら、もうプロ野球じゃなかったと思います。そんなところに僕がいたら駄目だって思いました」。幼少時、野球をやりはじめた頃に父・甲子夫さんから「無理だと思うまでやれ!」と言われ、37歳まで続けた。「無理だなってところまでやったと思います」と田村氏は言い切った。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)