中日と相思相愛も急転…阪神逆指名で「裏切りもん」 決断促された監督の“ポンポン”

元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】
元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】

大学生だった的場寛一氏は1999年の中日キャンプに参加…新人の福留に驚かされた

 元阪神の的場寛一氏は、1999年ドラフト1位で九州共立大から入団した。西武、近鉄、阪神、中日の4球団から当時の逆指名枠での誘いを受け、阪神を選択したが、当初の意中球団は中日だった。大学4年になる年の1999年にプロアマ交流で2月の中日・北谷キャンプに参加し「すごく、いいチーム。行きたいなと思った」。中日・星野仙一監督からも「ウチに来いや」と言われていたという。それがなぜ阪神に変わったのか。背景を明かした。

 的場氏は大学3年の1998年に福岡六大学野球春季リーグ戦で首位打者に輝くなど急成長。ドラフト上位候補になっていった。「登録名を“寛一”から“寛壱”にしたのも、その頃でしたね。母が『壱万円の“壱”がいいらしいよ』って言い出してね。で、結果も出たし、そのまま“寛壱”を使おうとなったんですけどね」。

 九州共立大は1998年リーグ戦を春秋ともに優勝。的場氏も「3番・遊撃」で活躍した。7月下旬からイタリアで行われた「第33回IBAFワールドカップ」日本代表に選出されるなど飛躍。翌1999年2月には、プロアマ交流で中日・北谷キャンプに2週間参加した。「4人ずつ行く球団が振り分けられて、僕は中日って言われたんです。その年、中日は優勝したんですけど、強いチームってこういうところなんだなって思いましたね」。

 特に印象的だったのはキャンプイン前日の1月31日、宿舎で行われたミーティングでの星野監督の言葉だった。「僕らも選手の方と一緒に出たんですけど『優勝したいとかじゃなく優勝するんだって気持ちでやれ! 何とかしたいじゃなくて、するんだ、やるんだと思って明日からやれ!』って言われてメモった記憶があります。自分の夢を手中に収めてきた人の言葉やって思った。あの言葉の重みというか、ドラゴンズがギュッとひとつになった瞬間に感じました」。

 プロのキャンプの凄さも感じた。「ショートは久慈(照嘉)さん、井端(弘和)さん、プロ1年目の福留孝介に僕。なかでも久慈さんはうまいなぁ、超一流ってこうなんだぁって思いましたね。それにプロって数をものすごくこなすなぁって。量が違いました」。的場氏と同い年のルーキー・福留は、それこそ朝から晩まで練習漬けの日々を送っていたという。

「朝は僕らがグラウンドに着く前から福留は高代(延博内野守備走塁)コーチのノックを受けていたし、練習が終わってからは水谷(実雄打撃チーフ)コーチにつかまえられて室内で夕方遅くまでバッティング。僕が滞在していた2週間ずっとそうでした。『体、大丈夫?』と聞いたら『やばいよ』って言いながらもこなしていく福留を見て体力が化けもんだと思った。僕は普通の練習だけでヘトヘト。プロはこれくらいやらないと駄目なんやなって感じましたね」

中日・星野監督の言葉に感銘も…1位確約の阪神を選択

 練習はハードでも充実した日々だった。「中日ってすごいいいチームだなって思って。好きになって、好きなままで2週間が終わりました。山崎武司さんから『ドラゴンズはいいところだぞ、来いよ』と声をかけてもらったし、高代コーチには本当によくしてもらいました。選手、コーチ、裏方さん、いろんな方にお世話になりました。帰り際に星野監督に挨拶したら『お前、ウチ来いや』って。『ありがとうございます』と言って後にしたんですけどね」。

 実際にその後、中日スカウトも熱心に誘ってくれたそうだ。「僕は中日キャンプの後に全日本の合宿に参加して、その時に肘を痛めたんです。ちょっと投げすぎてしまって……」。的場氏はそのまま1999年春季リーグ戦に突入。痛み止めなどで対応したが、いい結果は残せず、九州共立大はリーグ戦9連覇でストップし、2位に終わった。それでも中日をはじめ、的場氏へのプロスカウトの高評価は変わらなかった。

 中日、阪神、西武、近鉄の4球団から当時の逆指名枠を使っての獲得を打診された。的場氏の気持ちは星野中日に傾いていた。子どもの頃から阪神ファンだったが、それでも当初は中日だった。「阪神ファンの父も、最初の頃は『阪神はやめとった方がええで』って言っていました。タイガースファンだからこそ心配だったみたいです。ヤジとかメディアとか、やっていけるのかって気持ちがあったんだと思います」。

 それが一転したのは、福岡で阪神・永尾泰憲スカウトと、九州共立大・仲里清監督とともに会食した時だった。「春のリーグ戦が終わってから、いろんな球団と会食したし、甲子園やナゴヤドームなどを見学に行ったりもしたんです。中日は『2位で』ってことだったんですけど、阪神はこの会食の時に『1位で』って言ってくれたんです。その瞬間に(仲里)監督が僕の足を踏んだんですよ。それから膝のところもポンポンって」と的場氏は笑みを浮かべながら振り返った。

「それから監督が『寛一の今の気持ちはどうなんだって』って言い出したから、これは今、返事せいってことなんやなって思って『僕も阪神ファン。こんなありがたい話はないので、受けさせていただきます』と言って、成立したんです。こんな簡単に決まるんやなって感じでしたけどね」。その後、中日などに断りを入れ、父・康司さんにも報告した。「父は心配していましたけど、半面、やはりうれしかったそうです」。

 こうして「阪神・的場寛壱内野手」が誕生することになった。「プロ1年目(2000年)の甲子園での中日戦で高代さんに挨拶したら『裏切りもん、あれだけ言ったのになぁ』って言われましたけどね。中日は2位でしたけど、条件は阪神よりよかったですからね」。中日を選択していたら、どうなっていたかはわからないが、これも野球人生。そしてまた「ウチに来い!」と誘ってくれた星野監督が2001年オフに阪神指揮官になるのだから、縁とは不思議なものだ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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