岡田監督がドラ1に「しょーもない」 満足の一打も説教…忘れられない“教え”
元阪神の的場寛一氏は会社の代表取締役…財産になっている岡田監督の教え
元阪神ドラフト1位の的場寛一氏は2022年に健康補助食品事業やエステサロン事業などを手がける「くつろぎカンパニー株式会社」を設立し、代表取締役として忙しい日々を送っている。2005年に阪神を戦力外となり、2006年から社会人野球・トヨタ自動車で4番打者として活躍し、2012年に現役を引退。その後、退社し、スポーツメーカー勤務などを経て独立した。恩師である阪神・岡田彰布監督に教えてもらったことは今も生かされているし、忘れられないという。
2012年の現役引退後、的場氏はトヨタ自動車で女子ソフトボール部の運営を約2年担当して退社。スポーツメーカーでいろんな経験を積んでから現在、経営する「くつろぎカンパニー株式会社」を2022年に立ち上げた。「健康補助食品とか体作りのプロテインとかの代理店もやっていて、高校生や大学生に話をさせてもらう時もある。なるべく元プロ野球選手であることを隠したいんですけど、バレている場合は『怪我で泣いた選手です』と言って話しています」という。
「怪我さえなければ何とか道が開けるというのを見てきたし、どんなにどんくさくても練習をコツコツやって超一流になった選手も見てきたから諦めずにやってね、という話と、いずれユニホームを脱ぐ時があるから、その時にやってよかったなぁとか、自分の子どもができたら野球をさせてあげたいという気持ちで終わってほしいなという話は必ずします。(怪我に泣いた)僕の二の舞にはなってほしくないとの思いを込めながら営業したりしています」
事業の一環には野球教室もあり、野球とはずっと関わり続けている。北海道フロンティアリーグ「石狩レッドフェニックス」の野手コーチも務め「スポットで月に1回くらい行って、1週間近く滞在する感じです。監督が阪神で一緒だった坪井(智哉)さんなので、その縁で声をかけてもらいました。もちろん、プロ野球選手が生まれてほしいなぁみたいな気持ちで取り組んでいますよ」と意気込む。「僕はしくじり先生ですけどね」と付け加えて笑った。
1999年のドラフト1位(逆指名)で入団しながら怪我の連続で本来の力を発揮できないまま戦力外となった阪神時代はつらい時期だったはずだが、それを経験できたことも自身の財産と割り切っている。現在の阪神についても「僕は一ファンとして見させてもらっているし、日本一になった去年(2023年)は見てて楽しかった。今岡(真訪)さんや藤本(敦士)ら一緒にやってきたメンバーが苦労しながら頑張っているのは励みになりますね」と話した。
阪神・岡田監督は的場氏にとって恩師でもある。プロ1年目から3年目までは2軍監督、5年目、6年目は1軍監督として指導を受け「岡田さんの考え方は今も生かされています。これまで当たり前やったものってホンマにその通りなんって、クエスチョンをつけなさいよと教えてもらった」という。「見る面によって景色が違うのと一緒で自分に見えている面が真実がどうかわからないので、別の面からもう一回見なさい、いろんな角度から見て選択しなさいってね」。
入院中に「すごい量の花束」…岡田監督の気配りに感激
的場氏はさらに続けた。「僕が1年目(2000年)かなぁ。2軍戦で、ノーアウト二塁で打席が回ってきて“打て”のサインが出たんです。僕はそれを見て1アウト三塁にすればOKだろうと思って一生懸命右打ちしてファウル、ファウル、結局セカンドゴロを打ってランナー三塁にしてベンチに戻ったらみんなも『ナイス、ナイス』って言ってくれたんです。だけど、試合後(2軍監督の)岡田さんに『お前、何でしょーもないセカンドゴロを打ったんや』と言われた」という。
この時の岡田監督の言葉を的場氏は忘れられない。「岡田さんは『あそこで“打て”のサインを出したやろ、だからヒットを打ちに行け、引っ張ってもいいから、それでショートゴロで(走者が)進まんかってもベンチのせいや。何で“打て”を出したかと言ったら、お前と相手ピッチャーのレベルを考えて打てると思ったからや』って。僕は、えっ、認められているのって思って、怒られているのに、メッチャうれしかったんです。すごい視野の広い監督だと思いましたね」。
それこそ岡田監督に教えられたことは山ほどある。「藤川球児がまだ若くて2軍戦に先発で投げていた時、(阪神の攻撃で)9番バッターの球児が内野ゴロを打って一塁まで全力疾走してベンチに戻ってきた。次の1番バッターが僕で若いカウントで打ってアウトになってチェンジ。次の回に球児が点を取られたんですが、試合後、岡田監督が『誰のせいで点を取られたかわかるか、的場、お前や。球児を休ませて、同じルーティンでマウンドに行かせなかったからや』って」。
的場氏が早打ちしたため、藤川はベンチ前のキャッチボールもまともにできなかったそうで「そういうことまで気配りしないといけないと1年目に教えてもらいました」と印象に残っている。「いろんな行動がいろんなものにつながってくる。今の仕事でもそれは考えるようにしています」と“岡田の考え”はそれこそバイブルにもなっているようだ。
プロ1年目の的場氏は2軍戦でフェンスに激突した際に腎臓を痛めて入院したことがあったが「岡田さんがすごい量の花束を持って病院に来てくれたんです。ドアが開いた時は花束しか見えなくて誰だろうと思ったら岡田さんだった。『はよ、治して帰ってこいよ』って言われたのも覚えていますね」。苦しい思い出が多かった阪神時代の的場氏だが、そんな中でも岡田監督は特別な存在なのだ。
今後に向けて的場氏は「経営者としていろんな事業を展開していって、もっと会社を大きくしていきたい」と声を大にする。さらには「僕が決めているのは、阪神にお世話になったので、いずれ甲子園の年間シートを買う、いつかスポンサーになってフェンスとかに会社の広告を入れる。法人用でトヨタ自動車の新車を買う……。何歳になっても夢はあっていいと思うんでね」とも。形は変わっても、これも野球人生の延長戦。上を目指して、まだまだ走り続ける。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)