民家直撃弾の”真相”「えっ、今打った?」 元阪神4番、28年経っても色褪せない伝説
濱中治氏は高校3年時にエース兼主砲で活躍…通算51HRをマーク
現役時代に阪神、オリックス、ヤクルトの3球団でプレーした濱中治氏(野球評論家、関西独立リーグ・和歌山ウェイブスGM)は和歌山・南部高時代にエース兼主砲として活躍した。投手として最速142キロを計測したが、何と言っても注目を集めたのは打撃力。長距離ヒッターとしてプロのスカウトたちもマークした。高校通算51本塁打。中でも思い出の一撃はラストの51発目という。「初めての感覚でした」と振り返った。
1995年、高校2年秋の和歌山大会準決勝で南部は伊都に4-6で敗れた。エースだった濱中氏が制球を乱して自滅したのが敗因の1つだった。「みんなが甲子園に行こうってやっている中で自分が崩れてしまって負けたというのは申し訳なかった。絶対次の夏で取り返す、もう(3年夏の)1回しかないんで本気で野球に向き合わないといけないと思った」。父・憲治さんにお願いして夜の個人練習の量も増やすなど鍛え直した。
制球難克服のためにも走り込んだ。「やっぱりバランスを崩してしまうと、その修正能力がなかったと思う。崩れ出すとどうしよう、どうしようとなって……。下半身が弱かったというのも当然あったでしょうし、だからこそ、徹底的に坂道を走ったりとかもしましたね」。気持ちが入った練習は着実に浜中氏を進化させた。投球の安定感が増しただけではなく、打撃にもいい影響を与えた。「飛距離が伸びてホームランも増えたんです」。
あまりの打棒に練習試合でも敬遠される回数が増えた。それもあって、1996年、高校生活最後の夏の和歌山大会はそれまでの4番ではなく1番で起用されたほどだった。小学6年の時から抱えていた右肩痛も「高校3年の時はまだマシだったですね。痛みはあるんですけど、気にせずに投げられる程度でしたから」。集大成の夏に向けてコンディションも上々だった。南部は2回戦から登場して耐久を8-0、3回戦は和歌山工を5-4で下し、準々決勝は星林に3-0で勝利した。
51発目は左越えの場外弾…民家を直撃した
だが、ここで立ち塞がったのが、この年の選抜大会で準優勝になった智弁和歌山だった。2回裏に3点を失い、3回表に1点を返したが、南部はそのまま1-3で敗れた。「あの時の智弁は2年生にすごい強力メンバーがいましたからね。中谷(仁捕手=元阪神、楽天、巨人、現智弁和歌山監督)、喜多(隆志外野手=元ロッテ、現興国監督)とか……。でも負けたけど力不足とは思いませんでした。やるべきことはしっかりやって、互角には渡り合えましたしね」。
もちろん、勝ちたかったのは言うまでもない。「甲子園に行きたかったですからね。試合が終わった時は、ああ、これでみんなと野球をするのは最後なんだなってやっぱり寂しくなりましたし、悲しかったです。でも切り替えも早かったですよ。次の日、みんなで海に行っていましたもんね」。プロ注目の高校生スラッガーの夏はこうして終わったが、濱中氏は、この大会の準々決勝での高校通算51号アーチを「今でも忘れられない」という。
星林・吉見祐治投手(元横浜、ロッテ、阪神)から放った豪快弾は、レフト場外の民家を直撃した。「滞空時間が長すぎて、けっこう高くバーンと上がったんですよ。打球がどこへ行ったって感じで、レフトの選手も見失ったんじゃないですかねぇ」と濱中氏は話したが、特筆すべきは打った瞬間の感触だった。「打った感覚がなかったんです。普通はあるんですけど、その時はえっ、今、自分、ちゃんと打ったんかなって思うような感じでした」。
高校時代ラストの51発目で初めての経験だった。「昔からよくプロ野球選手が言っていた感覚がないというのは、こういうことなんだって味わった、そういうホームランでした。あれは今でも忘れられないですね」。これもまた魅力たっぷりの長距離砲として進化した証しでもあったのだろう。南部高3年時の和歌山大会での民家直撃の場外弾は伝説の一撃であり、打った人にしかわからない感触はスペシャルな思い出だ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)