阪神からの放出理由はコンビニ弁当? 帰り道で…流布した“デマ”「よくわからない」

ヤクルト時代の濱中治氏【写真提供:産経新聞社】
ヤクルト時代の濱中治氏【写真提供:産経新聞社】

濱中治氏はオリ3年目の2010年に戦力外…2軍で奮闘も1軍機会に恵まれず

 現役時代に長距離砲として活躍した濱中治氏(野球評論家、関西独立リーグ・和歌山ウェイブスGM)はプロ14年目の2010年、オリックスで戦力外通告を受けた。2007年オフに阪神からトレード移籍して3年目のことだった。「呼ばれた時は覚悟していました」と振り返ったが、新天地・ヤクルトの話もすぐに来たという。「オリックスの人から『たぶん、どっかから連絡が来ると思うぞ』って言われてホントに1時間後くらいにあったんです」と舞台裏を明かした。

 オリックスに移籍後、濱中氏の1軍での出番は年々、減っていった。移籍1年目(2008年)は85試合で打率.253、9本塁打、29打点。2年目(2009年)は4月3日の開幕・ソフトバンク戦(ヤフードーム=現みずほPayPayドーム)に「6番・右翼」で起用されたものの、その後はスタメン落ちも多く16打数4安打、1本塁打、1打点の成績で4月27日に登録を抹消された。1軍復帰は約3か月後の7月31日。8月に5本塁打を放ったが、9月3日に抹消され、そのままシーズンを終えた。

 26試合、打率.208、6本塁打12打点。それが移籍2年目に1軍で残した数字だが「状態はそんなに悪くはなかったと思う。下でも何とか頑張ってと思ってやっていたんですけど、ずっと(1軍に)上げてもらえなかったイメージがあります」というように、その年の濱中氏は2軍で53試合に出場し、打率.293、13本塁打、44打点と結果を出していなかったわけではない。それだけに悔しいシーズンではあったはずだ。

「(1軍に)上がりたいから、上がらせてくださいとも言えないし、こればかりは何ともしようがなかったですからね。肩ももう全然大丈夫の時だったし、30(歳)くらいで、まだベテランという年でもなかったし……。2軍の(古屋英夫)監督とかには『絶対腐ったらアカンよ』って常に声をかけられていました」。だが、そんな悪い流れは止まらなかった。むしろ、ひどくなった。移籍3年目(2010年)の1軍出場はわずか4試合だった。

 2010年シーズンからオリックス監督には岡田彰布氏が就任。濱中氏にとって阪神2軍時代から指導してもらった人であり、オリックスへトレードになった時の阪神1軍監督でもある。「何か縁があるんかなぁと思ったら、結局、クビを切られるのも岡田さんなんでねぇ。いろんなところで関わりがあって、今となっては面白い縁ですけどね」と濱中氏は話したが、この年も不完全燃焼のシーズンではあった。

 前年同様、2軍で懸命にプレーし、89試合、打率.292、9本塁打、43打点の成績を挙げたが、1軍のチャンスは4月27、28日の日本ハム戦(札幌ドーム)と7月17、18日のソフトバンク戦(京セラドーム)の計4試合。すべてスタメンで起用されたものの、4月の日本ハム戦は2試合7打数無安打で4月30日に抹消。7月のソフトバンク戦は3打数1安打、4打数1安打1打点と2試合連続安打をマークしながら、次カードは出番なしで7月22日に2軍落ちとなった。

戦力外通告から1時間後にヤクルトから連絡…背番号「0」で再出発

「なかなか、僕にはよくわからないことが多かったんですけどね」と濱中氏は苦笑する。さらには「僕が阪神からトレードに出されたのも“コンビニ弁当を食べていたから”というわけのわからない話があったそうなんですよ。岡田さんと僕は家に帰る道が一緒で、僕の車がよくコンビニに停まっていたってことでね。飲み物とかは買ったりしましたけど、弁当は買ってもいなかったんですけどね。どういうことなのか。いまだに『は?』って思っていますよ」とも……。

 とにかく、やるせない気分だったようだが、結果、2010年オフに戦力外通告を受けた。「呼ばれた時は覚悟しました。それでクビを言われたんですけど、その時にオリックスの球団の人から『あとでどこかから話があると思うぞ』って言われたんです。『どこかってどこですか』と聞いたら『それは言われへんけど』って。そしたら本当に1時間後くらいにヤクルトから連絡が来たんです」。

 返事はいったん保留した。「もともとは他でやってみたい気持ちもあったんですが、その時はもう引退も考えていたのでね。この2年、2軍で結果を出しても使われないとか、結構しんどかったし、どこに行ってもこんな扱いをされるのかなと思って……。それで『1週間くらい考えさせてください』と言いました」。そこからいろんな人に相談した上で承諾した。「かなり悩みましたけど、必要とされるんだったら、やらせてもらおうと決めました」。

 誘ってくれたのがヤクルトということも決断の理由になった。「またセ・リーグでできるというのもちょっと面白いかなというのがあったし、ヤクルトって結構やりやすいとみんなから聞かされていたんで、どんな雰囲気なのかなってね」。もっとも、この濱中氏のヤクルト入りの裏には岡田監督の存在もあったようだ。

 翌2011年、ヤクルトとオリックスのオープン戦が行われた際、濱中氏は岡田監督に挨拶に行ったという。「そしたら岡田さんに『お前、俺のおかげやぞ、ヤクルトに入れたのは』って言われたんですよ。“クビにしたくせに”と思って、すごくイラっとしたのも覚えています」と笑う。ヤクルトでの背番号は「0」を選択した。「ゼロからのスタートと言う意味で。ちょうど空いていたのでね」。いろいろあったが、やれることはやる。新たな気持ちでの最後の挑戦だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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