理不尽だらけも「殴ったらプロ野球が…」 怒りと我慢の連続、元HR王が掴んだチャンス

元中日・山崎武司氏【写真:山口真司】
元中日・山崎武司氏【写真:山口真司】

山崎武司氏は愛工大名電に半特待生で入学も「全く期待されていなかった」

 歯を食いしばった。中日と楽天の2球団で本塁打王になった山崎武司氏(野球評論家)は、愛工大名電高で1年秋からレギュラー捕手の座をつかんだ。それもわずかなチャンスを逃さず、中村豪監督にアピールした結果だった。耐える日々でもあった。寮生活では「理不尽なことが多かった」と明かすが、我慢を重ねた。「ここで先輩を殴ったら俺、プロ野球に行けなくなるよなぁ」と自分に言い聞かせていたという。

 セレクションでのホームランアピールによって1984年、山崎氏は愛工大名電に半特待生で入学した。「中村監督は最初、全然目をかけてくれませんでしたけどね。1年生は走ってばっか。ランニングさせられ、声出しさせられ、ボールなんてほとんど握らせてくれなかった。でも俺はなぜか自信があって、練習する先輩たちを見ながら俺の方がスゲーのになって思ったり、俺、あの人よりけっこうできるけどな、なんてずっと思っていました」と笑いながら話した。

 高校は寮生活。「(セレクションで入った特待生を中心に)1学年15人くらいの精鋭が寮に入る。45人から50人くらいの団体生活です。名電の野球部には一般生も含めて(1学年)100人くらい入ってくるけど、めちゃくちゃ練習がきついので100人が50人、50人が30人、20人と減っていく。少ないけど一般生でも残るヤツはいる。レギュラーを取るヤツもいますけどね。俺は半特だったけど、全く期待されていなかった。それはすごく感じました」。

 愛知・知多市立八幡中学の軟式野球部時代の山崎氏にはこれといった実績がなかった。「やっぱり(中学の時の)肩書きがないと駄目なんだとは思った。監督は自分で選んだ選手での構想があるわけですよ。ピッチャーはこいつ、キャッチャーはこいつってね。俺はキャッチャーだったけど、同級生のライバルは3人いた。だけど見た瞬間、俺の方がって思ったけどね。まぁ、自分で言うのもなんだけど、俺は掘り出しもんの掘り出しもんだったんじゃないですかねぇ……」。

理不尽な寮生活「殴ったろかと思ったのも何人もいたけど…」

 そう思いながらも耐えるしかなかった。「1年生は雑用係と応援。寮生は先輩のお世話もあるし、理不尽なことも言われるし……。夏の大会が終わって3年生が出て行くまでは大変でしたね。それで辞めていくヤツもいれば、寮を脱走するヤツもいましたからね。つらかったね。先輩に言われて“バカヤロー、タイマンだったら絶対負けねーけどな”って思いつつ、殴ったろかと思ったのも何人もいたけど、でもそれやったら俺のプロ野球は……。我慢や、ってね」

 心の中で怒っては我慢のずっと繰り返しだったそうだ。「こういう性格だから、比較的、俺は先輩にあまりやられんかったんです。だからまだ我慢できたのかもしれない。それでも腹立つ先輩はいたけどね。まぁ、1年の夏までは何の期待もされずに、ただ過ごしていた感じだったですね」。そんななかでも中村監督へのアピールチャンスは逃さなかった。

「ある日、夏の大会の試合前に先輩たちがノックをやっていた時に、キャッチャーの先輩がへまばっかりやって監督が怒ってその先輩を外に出したんです。それで「誰でもいいから入れ!」って。たまたま僕がそこにいたから内野ノックの練習に入ったんです。チャンスだな、俺の肩を見せるのはここだと思って、ボール回しでセカンドスローの時、思いっ切り投げた。そしたらビャーンと行ったんです。監督が“なんだお前”みたいになって、そこから目をかけてくれたんです」。

 山崎氏がスタンド応援部隊の一員だった、その年の夏の愛知大会。愛工大名電は準決勝で東邦に敗れた。「3年生の先輩が引退して新チームになって、僕は背番号12をもらいました。それから秋の県大会になって再リセットかけた時に背番号2。高校2年からはレギュラーでした」。それは1年の最初の頃にブチ切れずにじっと我慢して、グラウンドではたった1回のチャンスをものにして、つかんだものでもあったわけだ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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