パは「同じプロとは思えん」 報道陣減や待遇悪化…監督も4月に退任 HR王が受けた衝撃 

オリックス時代の山崎武司氏【写真提供:産経新聞社】
オリックス時代の山崎武司氏【写真提供:産経新聞社】

山崎武司氏は2003年にオリ移籍…解任の石毛監督から「最後に4番打ってくれ」

 通算403本塁打のスラッガー・山崎武司氏(野球評論家)は、2003年1月に平井正史投手と1対1の交換トレードで中日からオリックスに移籍した。プロ17年目にして初めてのパ・リーグ、名古屋に家族を残しての単身赴任……。環境は変わったが、それも自らトレード志願して決まったこと。すべてを割り切って、心機一転、何としても結果を出そうと意気込んだ。だが、チームは最下位。移籍後初4番は監督が辞める日だった。

 山崎氏は2002年、中日・山田久志監督の起用法などに不信感を抱き、3年契約の1年目ながらトレードを志願。2003年1月にオリックスへの移籍が発表された。「キャンプが始まるまではずーっとモヤモヤしていました。俺、オリックスでできるのかなっていう不安しかなかったですね」。中日での2002年の成績は26試合、78打数15安打の打率.192、2本塁打、5打点。使われなかったとはいえ、この数字からのやり直しになるのだから当然だろう。

 とにかく結果を出すしかない。キャンプインとともに気持ちを切り替えて臨んだ初めてのパ・リーグは戸惑いから始まった。「環境の違いにびっくりした。えれーところに来たなって思っちゃった。報道陣は全然少ないし、選手の待遇も悪かった。(中日と)同じプロとは思えんくらいのね。それを当たり前に、何も文句言わずにやっている(オリックスの)選手はすごいなと思いましたよ。まぁ、待遇改善はいろいろ提案して(球団は)徐々に変えてくれましたけどね」。

 オリックス監督は石毛宏典氏。現役時代は1986年にパ・リーグMVPに輝くなど西武黄金期の主力として大活躍した名選手だが、監督就任1年目の2002年は最下位に終わり、山崎氏が移籍した2003年は巻き返しを期しての2年目シーズンだった。しかし、開幕4連敗など苦しい戦いが続き、わずか20試合(7勝12敗1分)で解任された。4月23日の西武戦(札幌ドーム)が石毛監督の最後の試合となった。

 山崎氏はその日の試合前に指揮官から呼ばれたという。「石毛さんから『ちょっと来てくれ』って監督室に行ったら『武司、俺、今日で終わりだから』って言われたんです」。まだ開幕して1か月も経っていない時期だけに驚いた。「『えーっ、そうなんですか』と言ったら『お前、最後に4番を打ってくれ』って。『俺ですか』って言いましたけどね」。山崎氏のバットはまだまだ本調子ではなく、それまで4番起用は1度もなかった。

レオン監督もシーズン後に解任…移籍1年目に22HRも「すごく責任を感じた」

 3月28日の近鉄との開幕戦(大阪ドーム)は「7番・指名打者」で出場して4打数1安打だったが、4月はスタメン落ちもしばしば。そんな中で任せられた移籍後初4番だった。しかも石毛監督のラスト采配の日に直接指名されての起用だ。「4番・一塁」で出場した試合は4打数1安打、チームも5-4で勝利したが、その時点での山崎氏の成績は打率.217、0本塁打、3打点。「石毛さんはいい人だったんですけどね……」。結果を残せず申し訳ない気持ちだったのは言うまでもない。

 4月24日からはレオン・リー打撃コーチが監督を務めた。「レオンにはすごくかわいがってもらいました。調子が悪くても『頑張れ』って使ってくれた」と山崎氏は感謝する。4月27日のダイエー戦(福岡ドーム)で寺原隼人投手から移籍1号、2号の1試合2発を放ったが、5月は本塁打なし。そんな中でレオン監督に励まされながら結果を出し始めた。6月は3本塁打。7月は4本塁打。8月は7本塁打と看板のアーチも増えていった。

「でもね、自分の中でもバッティングがグチャグチャだったから“やっべーな”って、ずっと思っていた。もうそろそろお迎えが来るなって。(翌2004年までの)この3年契約で終わってしまうなっていう危機感があった」という。最終的には22本塁打を放ったが、オリックスは最下位に沈んだまま浮上できず、レオン監督もそのシーズン限りとなった。

「調子が悪いなりに22本打てたけど、レオンもクビにさせちゃって、すごく責任を感じた」と山崎氏は悔しそうに振り返った。石毛監督やレオン監督との思い出も残るオリックス1年目は110試合、打率.232、22本塁打、68打点。数字は中日時代の前年(2002年)よりもすべて上回ったが、もちろん納得できるものではなかった。だが、オリックスでの生活は翌2004年シーズン、さらに厳しいものになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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