全力投球なのに…助っ人激昂、まさかの“侮辱”と勘違い 波紋呼んだ投球「知らんがな」
できた“当てろ”のサイン…上田監督から「星野の球は痛くないからいけるやろ」
NPB通算176勝を挙げた細身左腕の星野伸之氏(野球評論家、元阪急・オリックス、阪神)は、“遅いボールの使い手”として有名だった。ストレートの球速は127キロ~128キロくらいで安定しているのがベストだったという。加えて、フォークボールやカーブで打者を翻弄したが、遅いがゆえにいろんなことがあった。南海・ダイエーの助っ人、トニー・バナザード内野手とウィリー・アップショー内野手は忘れられない対戦相手だった。
プロ5年目、1988年の星野氏は「前の年(1987年)が(11勝12敗で)ジェットコースターみたいに良かったり、悪かったりしたので、やっぱりちょっと安定したいというのはキャンプから意識はしていました」という。結果は13勝9敗、防御率3.06。全て先発で27試合に登板し、1完封を含む16完投。「多少は安定したんですかねぇ」。その頃は先発なら完投は当たり前。「今みたいに球数は考えていなかった。疲れていてもどうやって抑えるか、それだけだった」と振り返る。
星野氏の場合、調子のバロメーターはストレートの球速の安定度だったそうだ。「力の伝え方が安定しているかどうかがわかるんでね。127とか128キロで安定していれば今日は行けそうだなって思っていました。それで僕は試合中にスピードガンの表示を確認するために後ろを振り返っていたんです。先輩には『スピードは出てねぇんだから、いちいち振り向くなよ』って言われていましたけどね」。
“遅いボールの星野”のイメージは、チーム内外で浸透していた。やられたらやり返すの厳しい内角攻めの応酬で、乱闘騒ぎも起きていた時代。「阪急は山田(久志)さんも佐藤(義則)さんも今井(雄太郎)さんも誰ひとり当てに行くようなことはしなかったんですけど、上田(利治)監督が1度だけ『野手がやられすぎているからウチも行くぞ!』ってミーティングをしたことがあった」と明かす。
「結局、1度も出していないと思いますけど、一応”当てろ“のサインも決まったんです。その時、上田監督が笑いながら言ったんですよ。『星野の球は痛くないからいけるやろ』って。いやいや、それだったら当てる意味がないでしょ。僕をここに呼ばなくていいでしょって思ったけど、いやー凄い時代でしたよね。そんなこともありましたねぇ……」。当時を思い出しながら笑みを浮かべたが、自身の投球で打者を怒らせたことはあったという。
助っ人を苛立たせた“遅球”「こっちは全力で投げているだけなのに」
覚えているのが1988年に南海に入団したバナザードだ。星野氏が危険球を投げたのではない。「ただカーブを投げたら、怒りだしたんですよ。最初は何でなのか、よくわからなかったんですが、(遅すぎて)なめられたと思ったみたいですね。よう怒っていました。向かってこようとしたときもありましたよ。知らんがな、ホンマ、こっちは全力で投げているだけなのに、ずっとそれで投げているんだから、そろそろ分かれよって思いましたけどね」。
加えて印象深い選手として挙げたのがアップショーで、南海がダイエーになった1989年に入団した助っ人だ。阪急がオリックスになった年でもあったが、いつもよりさらに遅いスローカーブを投げたことがあったという。「抜いて投げてわざと遅くしたんですけど、アップショーは無茶苦茶切れてましたね」。タイミングを外すためのボールも、あまりにも遅くて、これまたバカにされたと思ったようだ。
「その時、球審はストライク、ボールの判定でアップショーが怒ったと思ったらしく、何か言いに行こうとしたんですよ。そしたら『違う、違う、俺はアイツに怒っているんだ!』って。いやいや、それもこっちは別に悪くないだろうって思っていましたけどね」。助っ人を苛立たせるほど、遅いストレートと遅いカーブにフォークも交えた星野氏の投球術は、冴え渡っていたということだろう。
「カーブの場合は特に外国人選手がよく、すごい空振りをしてくれるんで、これくらい遅くても逆に行けるっていうのはありましたね。一時、裏方さんに『スライダーも覚えろよ、ストライクも取りやすいぞ』って練習したこともあったんですけど僕の場合、手首がクッと返るんで、それもタテのカーブみたいになるから意味ないなぁと思って、それだったら真っ直ぐとカーブとフォークでやろうと決めたんですけどね」
球速が遅くても工夫しだいでプロでも勝てることを、星野氏は証明した。三振の山まで築いたのだから恐れ入る。通算2041奪三振は、NPB23位(2024年現在)だ。“星の王子さま”の愛称を得て人気も急上昇。緩い球を巧みに操る細身左腕はますます勢いづいていった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)