阪神移籍で感じた戸惑い メディアに苛立ち、溜まる“ストレス”「なんだこりゃ」

阪神時代の星野伸之氏(右)【写真提供:産経新聞社】
阪神時代の星野伸之氏(右)【写真提供:産経新聞社】

星野伸之氏は2000年に阪神へFA移籍…自主トレの報道に憤慨「ぼろくそに書かれた」

 人気球団の現実に驚いた。通算176勝左腕の星野伸之氏(野球評論家)は、プロ17年目の2000年シーズンから阪神タイガースの一員になった。オリックスからFA移籍しての新天地だった。初めてのことに戸惑うことは多かった。「キャンプで、ただ投げただけで(スポーツ紙の)1面になった」。本拠地・甲子園の大観衆から発せられる“あと1人コール”や“打たれたときのため息”……。すべてが「すごかった」という。

 阪神にFA移籍した星野氏の背番号は34。「21と34が空いていたのかな。で、21は(ドラフト2位)ルーキーの吉野(誠投手)がつけるということで34を、ってなった。まぁ金田(正一)さんや山本昌も34だったし、番号には何のこだわりもなかったのでね。(オリックス時代の)28も福原(忍)がつけていたし、それも別に何とも思っていませんでしたよ」。新天地で頑張るだけ。それしか頭になかったようだ。

 だが、阪神の人気ぶりは想像を超えていた。「FAで行って、最初のキャンプで僕が投げただけで1面ですからね。“星野投げた”って当たり前のことが書いてあるだけだし、そりゃあ投げるわって感じじゃないですか。なんだこりゃって思いました。これで新聞が売れるのっていうね………。はぁーっていうのはありましたね。うかつなことは言えないな、というのもありましたよ」。振り返れば、キャンプ前に愛媛・新居浜で行った自主トレでも思わぬことがあったという。

「マスコミの方が来られた時にちょうど雨が降ったんですよ。普段はゴルフ場を走ったりするんですけど、芝生が滑るんで、今日は軽めでいいかとなった。でもマスコミさんがいるから、いつもは使わない体育館を借り切ってやったんですよ。『こんな感じしかできませんけど、いいですか』って話もしてね。バスケもやって『シュートするところを写真、撮りますか、どんなんでもやりますよ』と要望も聞いてね。そしたら何社かにぼろくそに書かれたんですよ」。

 星野氏は憤慨するしかなかった。「“たかが2時間の練習で、何が自主トレだ”って感じで書かれたんです。僕のお世話になっている社長さんの部下の方に送り迎えとかいろいろやってもらっていたんですけど、記事を読んだ社長さんに部下の人は『何をやらせているんだ』って怒られるし……。全紙じゃないですけど、いやいやもうびっくりでした。これだったら来てもらわない方がいいやって、あの時は思いましたね」。

 自主トレ、キャンプ、オープン戦とやっていることはオリックス時代と一緒でも、FA移籍の期待の左腕としての注目度が、良きにつけ悪しきにつけ違った。そんな中で星野氏はやれることに集中した。開幕投手も任された。だが、阪神デビューはほろ苦いものになった。2000年3月31日の横浜戦(横浜戦)で、2回5失点。立ち上がりに打ち込まれた。打たれだすと止まらなくなる悪い時のパターンだった。

甲子園は「声援もすごいけど、打たれた時のため息もすごい」

 それでも引きずらずに立て直すのが星野氏の持ち味でもある。中6日で先発した4月7日の広島戦(広島)は、8回2/3を3失点で敗戦投手。広島・佐々岡真司投手と投げ合い、2-2の9回にサヨナラ負けで力尽きたが、粘り強い投球は見せた。続く4月14日の中日戦(甲子園)は1失点完投で移籍後初勝利をマーク。さらに4月23日のヤクルト戦(甲子園)では4安打完封、初回の1点を守り切って2勝目を挙げた。

 その上で星野氏はこう話す。「1-0の時はプレッシャーがかかりましたねぇ、“あと1球コール”で……。最後のバッターが(ロベルト・)ペタジーニ(内野手)であと1球となって……。完封できてよかったんですけど、あそこでホームランを打たれたらどうなったんだろうって思いましたよ。(甲子園は)声援もすごいけど、打たれた時のため息もすごいんでね。あれはあれでプレッシャー。タイガースのピッチャーはそこら辺も難しいですよね」。

 やはり、すべてがオリックスと同じというわけにはいかなかった。DH制のパ・リーグと違って、セ・リーグは投手も打席に入る。「それまでは(自軍の攻撃の間に)次のバッターのことを考えればよかったけど、打席に立つ手前になると手袋はせなあかんわ、ヘルメットは用意しとかなあかんわ、置き場所を忘れていたら探さないといかんし結構面倒くさいことが多いんですよね。キャッチボールも打席が回る前はできないし、ルーティンもおかしくなるし……」。

 代打を出されて交代のケースもある。星野氏は「立ち上がりが悪い僕にはよくなかったですね、ホントに。早めに代打を出されたこともありましたしね」と笑いながら話したが、実際、好投しても勝ち星につながらないこともあれば、序盤に打たれて調子を取り戻す前に降板もあった。2000年の阪神はチーム打率が.244でリーグ最下位と援護も少なかった。いろんな悪循環があったことだろう。

「当時のセ・リーグは広島に金本(知憲外野手)がいたり、いい左バッターが多かったですね。僕は左打者の方が嫌だったんですよ。パ・リーグの時はけっこう右ばかり並んでいて、その方が投げやすかった。左には結構打たれているんです。僕は右バッターの外のベースのラインを目標に投げるんですけど、左はどうしてもそこにバッターが先に見えちゃうんで、ホント微妙なタイミングなんですけどね」

 2000年の星野氏は21登板で5勝10敗、防御率4.04の不完全燃焼に終わった。阪神に移籍して、これまでとは何か勝手が違った。精神的にも肉体的にも何かしらがおかしくなり始めていた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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