巨人ドラ1の先輩から「お前がやれ」 まさかのコンバート…“レジェンド遊撃手”誕生の背景

中日、ロッテでプレーした宇野勝氏【写真:山口真司】
中日、ロッテでプレーした宇野勝氏【写真:山口真司】

宇野勝氏は1年先輩・篠塚から守備位置変更の打診…三塁から遊撃に変わった

 1984年に本塁打王に輝くなど、強打の遊撃手と知られた宇野勝氏(野球評論家、元中日、ロッテ)は1974年の千葉・銚子商1年秋に右肘を故障したため投手から内野手に転向した。当初は三塁を守っていたが、1学年上の篠塚利夫内野手(元巨人)の“指令”で遊撃に変わった。1975年の2年夏は千葉大会準決勝、2年秋も千葉大会決勝で敗戦。悔しい結果に終わったが、その年には大感激の出来事もあった。”ミスタープロ野球”巨人・長嶋茂雄監督から訓示をいただいたという。

 1974年の1年秋、背番号「1」をつけて臨んだ千葉大会初戦で宇野氏は右肘を痛めて降板した。「それから2、3か月は走ることしかできなかった」と言うほどの重症で、復帰後は投手を断念、打撃力を生かして内野手に転向した。「最初は篠さんがショートで俺がサードだった。でもある時、篠さんに『やっぱりお前がショートをやれ』って言われて入れ替わることになったんだよ」。

 銚子商は1974年夏、土屋正勝投手(元中日、ロッテ)を擁して甲子園優勝を成し遂げた。宇野氏は「優勝した時、篠さんはサードだったからさ、それもあったんじゃないかな」と話す。何はともあれ、大物先輩の指令によって“遊撃手・宇野”は誕生した。「篠さんは(全国制覇後に)肋膜炎になって大変だったんだけどね」。しかし、宇野氏が2年の1975年夏は千葉大会準決勝で習志野に1-2で敗れた。「小川(淳司)さん(元ヤクルト、日本ハム、現ヤクルトGM)にやられたんだよ」。

 その試合は習志野の3年生エース・小川が打っては4回に先制2ラン、投げては1失点完投の活躍だった。宇野氏は「小川さんの2ランは覚えている。ノーアウト一塁かなんかでバントしてくるだろうと思っていたら、カーンと左中間にホームラン。2点とられて、あーあ、みたいになったからね。春は駄目だったけど、夏は甲子園に行けるだろう、大丈夫だろうと思っていたんだけどね」と悔しそうに話す。習志野は同年夏の甲子園で優勝。2年連続で千葉勢が全国の頂点に立った。

篠塚は1975年ドラ1で巨人から指名…長嶋茂雄監督が挨拶に訪れた

 宇野氏の世代が最上級となった2年秋も千葉大会決勝で習志野に0-5で敗れ、翌年選抜の夢も消えた。「甲子園に出たいがために銚子商を選んで、1年生の時は優勝しているけど、自分は行っていないし、何か考えるところはあったねぇ。自分が主力で出られないんじゃないかみたいなね。もうチャンスは(3年夏の)1回しかない。どうなの、みたいな……」。当時の銚子商は甲子園に出場するのが当たり前のようでもあっただけに、焦りも出て当然だろう。

 そんな中、11月18日のドラフト会議で篠塚が巨人に1位指名された。1974年には土屋が中日から1位指名されており、銚子商から2年連続でのドラフト1位選手だ。「当時のドラフトは午前11時くらいに始まっていたから12時の昼前には校内放送がありましたよ。『篠塚選手は巨人1位です』ってね」。その流れで起きたのが千葉県出身の大スターでもある長嶋監督との夢の対面だった。

「長嶋さんが銚子商に(挨拶に)来るっていうからさ、みんな“いつ来るんだ、いつ来るんだ”ってなってね。そしたらさ、正面からセンチュリーがビュワーンって感じで来たんだよね。それで応接室に野球部だけ集まって訓示をいただいたんだよ」と宇野氏は今でもうれしそうに話す。「『俺も千葉県人だから、頑張ってほしい』みたいな言葉をもらった。いやもう、そりゃあ感激だよ。だってさ、あの長嶋さんが目の前でしゃべっていたんだよ」と声を弾ませた。

 超大物の来訪で野球部全体が大いに盛り上がったのは言うまでもない。1975年春、夏と甲子園出場を逃し、1976年選抜出場もならなかったが、ミスタープロ野球による訓示は、ナインにとって大きな励みにもなったことだろう。宇野氏が3年生の1976年夏、銚子商は千葉大会を制して甲子園出場を果たす。最後のチャンスをつかんだ背景には、“長嶋効果”もあったのかもしれない。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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