プロ15年で頭部死球が13回「下手だった」 ヘルメット陥没の衝撃…戦力外を受け入れたワケ

西武時代の犬伏稔昌氏【写真提供:産経新聞社】
西武時代の犬伏稔昌氏【写真提供:産経新聞社】

元西武の犬伏稔昌氏は右投手から12回、左から1回頭部死球を受けた

 左投手を得意とし「サウスポーキラー」として西武でプレーした犬伏稔昌氏は、2005年シーズン限りで15年間の現役生活を終えた。右投げ投手から12回、頭部死球を受けて苦手意識が芽生えたことが“左専門”で生きていきてこうと決めたきっかけだった。

 1軍出場機会がゼロで終わった2005年オフ、マネジャーから連絡が入った。すぐに分かった戦力外。「今シーズンで契約は終了します。トライアウトを受けるなら自由契約。球団に残るならブルペン捕手として用意しているから任意引退してください」。すぐに引退の意思を伝えた。「即決でした。僕は左投手しか打てなかったので」。

 15年もの現役生活を支えた左投手に強かった理由は「右ピッチャーを全然打てませんでした。それが左専門となったきっかけですかね」と笑う。「プロで13回も頭に死球を受けているのですが、そのうち12回が右投手なんです。なぜそんなに当たるのか理由は分からないのですが……。なので右ピッチャーになると自然と体が逃げちゃうというか、投げる瞬間に無意識のうちに体が開いちゃうんです。バッターとして一番やっちゃいけない。左はそんなことなくパッと入っていける」。

 右投手への苦手意識を把握していた2軍の監督やコーチからも「左一本で行いけば?」と勧められた。「自分もその道で生きていこうと決めました。避けるのが下手くそだったんです」。フリー打撃では左投手を中心に打ち続けたという。

 ただ、驚くことに13回の頭部死球のうち「1番ひどかった」のが、右ではなく同僚左腕から受けたものだったという。1997年のキャンプでの紅白戦、ブライアン・ギブンスが投じた直球が直撃した。「ヘルメットは陥没していました。ボールはノーバウンドで三塁まで跳ね返って鈴木健さんが捕ったそうです」。幸いにして大事にはいたらず、それでも左投手に対しては恐怖心が芽生えることはなかったという。また、右投手からの12度の頭部死球もいずれも長期離脱を要するほどではなかった。

取材に応じた元西武・犬伏稔昌氏【写真:湯浅大】
取材に応じた元西武・犬伏稔昌氏【写真:湯浅大】

現在は野球教室講師や親族経営のコンビニ手伝い…指導者への思いも

 球団スタッフとしてブルペン捕手を5年務め、2010年でチームとの契約が終了すると、「デーブ」の愛称で親しまれた大久保博元氏がオープンした野球教室のスタッフとして手伝った。まずは生徒集めのビラ配り。「2人で都内各所を手分けして回りました。子ども用の自転車がある家を中心にポストに入れて。バッティングセンターにもお願いして貼らせてもらいましたね。結局、3000枚くらいは配ったかな」。

 しかし、チラシを見て入室した生徒はゼロ。結局は知人の息子から始まり「その子が友達を連れてきて」徐々に輪が広がっていったという。

 現在は大久保氏の野球教室からは離れ、神奈川・横須賀市で野球塾や幼児に運動を教えるコーチなどを行なっている。さらに娘の夫が大手コンビニエンスストアのオーナーをやっている関係で店のスタッフとしても働いている。

「コンビニではレジうち、品出しなんかもやっています。ずっと野球ばかりだったので、初めての社会人みたいですごく楽しいんです。新鮮でいいですよ。贅沢はせず、あとは食える分だけ収入があればいいかなと思っていますね」

 野球への思いも忘れてはいない。「今の生活は崩したくないけど、学生野球の資格回復もしているので、高校の監督もやってみたいなと思います。プロの世界にも戻れるなら戻りたいですよね」。

 プロ15年間で1軍で出場を経験したのはわずか5シーズンのみ。通算116試合、打率.295、4本塁打、29打点だった。プロ初安打まで6年、初本塁打まで10年かかった犬伏氏。左キラーとして登場すれば「猛犬注意」と書かれた旗がスタンドのあちこちに掲げられた。ファンに愛された苦労人だった。

(湯浅大 / Dai Yuasa)

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