滑り止めで入学「オレ、失敗したな」 かかと踏んでドブ掃除…厳しかった“後の名門”
1991年ドラフト3位で近鉄に入団した品田氏の高校時代
NPB、米独立、イタリアの3か国でプレーした品田操士(しなだ・あやひと)氏は、埼玉・花咲徳栄高からドラフト3位で近鉄入りした。今でこそ野球の名門校だが、当時はまだ甲子園未出場。「正直に言うと、滑り止めかな」と入学理由を明かす。
当初は兄が卒業した上尾高を志望していた。ただ、公立で特待生の制度もなく「試験に受かるだけの頭がなかった」と断念した。県内や都内の私立からの誘いもあったが、両親が全て断りを入れた。「親も上尾高校に行かせたかったみたいで」。
当時の花咲徳栄高は埼玉でベスト16に入るほどの実力で、学校が野球に力を入れ始めていたタイミングだった。監督を務めていた稲垣人司氏は「不良を集めてきて更生させるみたいな人」。私立の学校生活にカルチャーショックも受けた。野球部も当時は、学年別の厳しさがあった。
「すごくおっかない先輩ばかりだった。監督自身も空手もやっていて生活指導の先生だったし、私立だから超厳しい。野球どうこう以前に入学して思ったのは、『オレ、失敗したな』と。上履きのかかとを踏んで歩いているだけで3日間くらいドブ掃除させられたよ」
当時の1年生は基本的にはメインのグラウンドには入れず、上級生の練習が終わった夜にシートノックなどを行なっていた。「昼間はもう一つの、石ころばかりのグラウンドで、基礎練習ばっかりやらされていた。寮に入れたのは、3年生が引退して新チームになるころだったかな」。
高校で投手転向も「絶対にやりたくなかった」
プロでは投手だった品田氏だが、高校入学当初は野手である。当時のポジションは一塁。中学時代はほとんど投手をやったことがなかった。
「ノックを受けて、ファーストを守っていても、サードやホームに送球するわけじゃない。その球がみんなと全然違うと。ピッチャーは絶対にやりたくなかったんだよ。だって、疲れるじゃん。走ったりする練習もたくさんしなきゃいけないし。野球あるあるだよね。バットを振っている方が楽しいや、って思っていた」
本意ではなかったが、投手として1年生の秋の埼玉大会で早くも頭角を現す。リリーフ登板した際に好投し、投手として注目を集めるようになった。「関係者がオレを見て、あれはプロに行けるという話になったらしい。それで外部コーチが徳栄に来たんだよね。そのあと親を呼んで来いとか言われて、最初は何の話なのか全然分からなかった」。3年間で甲子園に出場することはできなかったが、1991年のドラフト会議で3位指名され、近鉄に入団した。
急成長でプロへ足を踏み入れたが、当時から「大学は行くつもりはなかった」と振り返る。社会人野球では埼玉のチームから内定をもらっていたが、プロ入りを最優先にしていた。「事前に聞いていたのはダイエー(現ソフトバンク)。若田部(健一氏)さんを獲れなかったら指名する、という話だったみたい。でも正直なところ、ダイエーとか近鉄とか、どこにあるんだろう、って感じだった」。
野球をやっている以上、隠しようがなかった品田氏の投手としての才能。近鉄やダイエーの本拠地さえよく知らなかった高校生だったが、その後NPBだけでなくアメリカ、イタリアと渡り歩くことになろうとは、この時まだ夢にも思っていなかった。
(伊村弘真 / Hiromasa Imura)