名門の誘いは“聞かず”無名校へ「自分が抑えれば甲子園行ける」 野口茂樹氏が選んだ近所進学

元中日・野口茂樹氏、元々は右投げも幼少期に左投げに
1999年にセ・リーグMVPに輝くなど中日のエースとして活躍したのが野口茂樹氏だ。ノーヒットノーラン(1996年)、最優秀防御率(1998年、2001年)、最多奪三振(2001年)……。輝かしい球歴を誇る左腕は現在、愛知県西尾市の株式会社カミヤ電機の営業担当として働きながら、野球解説者、野球指導者も務める。現役時代同様に今も“フル回転”で動いているが、ここまでの野球人生もいろいろなドラマがあった。まずは少年時代を振り返ってもらった。
愛媛県東予市(現・西条市)出身、1974年5月13日生まれの野口氏は「野球は物心ついたときからやっていましたからね」と笑みを浮かべた。「父親が野球好きだったんでね。だから遊び道具も野球になっちゃったと思います」。球界屈指の左腕は幼い頃から、野球とともに成長していったわけだが「初めは右投げだったみたいなんです」とも話す。“みたい”というのは、その時代をよく覚えていないからだという。
「右だったんだけど、グローブを持たない時に、左で投げたら、その方がボールが飛んだので、左利きになったと聞いています。幼稚園とかそれくらいの頃なんですかねぇ。僕ね、たぶん、右で投げた時に隣の家のガラスを割っているんですよ。キャッチボールで。すっぽ抜けたと思うんですけどね。左で投げて割ることはなかったんで、その時が右で投げていた頃だと思う。まぁ、それくらいしか、僕には右で投げた記憶があるような、ないような、なんですけどね」
文字を書くのも、箸を持つのもすべて右。「投げる、打つ、蹴るとか、だいたい球技は左で、あとは右ですね。社会人の企業チームでソフトボールをやっていた母親が左だったんで、左のDNAはあったんだと思いますけどね」というが、幼い時に左で“いい球”を投げていなかったら、右投げのままだったのかもしれない。野口氏の野球人生は物心がつく前の段階から“流れ”が変わる出来事があったようだ。
1981年、多賀小に入学。「4、5、6年とピッチャー、試合は5年生になってからかなぁ。全然勝っていないですよ。弱かった。すぐ負けていました」。その頃から「プロ野球選手になりたいと思っていた」と話すが、好きな球団や選手ついては「特になかった。テレビで巨人戦中継を父親が見ていたので見ましたけど、本当は別の番組が見たかったので……。野球を見たいとは思っていませんでしたね」という。
中学3年時の県総体で3戦連続完封V、四国総体は4位
「当時は(阪神の)ランディ・バース(内野手)がすごいなと思いましたけど、それも別に好きなわけではなくて、打っているからすごいなって思ったくらい。そんな程度でした。(家では)野球中継を見るよりも、野球ゲームとかをやってオーって感じでした」。1987年入学の東予東中では軟式野球部でプレー。「1年生からずっとピッチャーでしたが、先輩方がいる間はほぼ試合で投げることはなかった。バッピ(打撃投手)をするくらいで、練習ばかりでしたね」。
先輩たちが抜けてからはエースとして活躍した。3年時には愛媛県の中学総体で準々決勝から3試合連続完封で優勝した。「軟式ですから。そんなに点は取られない。1点取られたら負けって感じでしたからね」。四国総体では4位。「2試合して、どっちとも0-1で負けたんじゃないかな」という。そんな好投の連続で野球の名門高校から注目され「声はかかったみたいです」。ここでも“みたい”というのは直接アプローチを受ける前に進路を丹原高に決めたからだった。
「住んでいたところは東予市だったんですけど、父親が経営する印刷会社が丹原にあったのでね。父親も勧めていましたし、(野球の)名門に行く、行かないということよりも丹原高校ということで……。母親は名門に行ってほしかったようですけど、僕も(丹原は)まぁ、近いからいいかなって思った。自転車で通えるくらいだったんでね。名門に行くと遠いし、名門に行かなくても、自分が抑えれば甲子園に行ける、というような感じでした」
普通に受験勉強もして、野球では当時無名の愛媛県立丹原高に合格した。「丹原は井上(伸二)監督になって(野球部に)力を入れるということでしたしね」。1981年夏に愛媛・今治西の主将として甲子園を経験した井上監督の下で、野口氏は左腕投手として成長していった。年々、ストレートとカーブに磨きがかかり、三振の山を築くようになった。プロスカウトの目にも留まった。名門校に行かなくても“ドクターK”として、その名前は轟いた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
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