「俺の足、ついているか」 悪夢の大怪我で消えた感覚…因縁の中日移籍も悲劇の1年目

広島など4球団でプレーした長嶋清幸氏【写真:山口真司】
広島など4球団でプレーした長嶋清幸氏【写真:山口真司】

元広島・長嶋清幸氏、移籍先の中日で開幕スタメン

 まさかの長期離脱になった。広島などで活躍した外野手で、現在は愛知県犬山市の「元祖台湾カレー犬山店」オーナーの長嶋清幸氏はプロ12年目の1991年から中日でプレーした。当時の竜の主砲である3冠男の“オレ流”落合博満内野手から打撃指導を受けて関係を深めるなど、新天地にもうまく溶け込んだ。開幕スタメン出場も果たし、闘将・星野仙一監督からも期待されたが、6月に悪夢が待っていた。「膝だけがクリっとなって……」。守備中の大怪我だった。

 長嶋氏は1991年1月に中日の音重鎮外野手、山田和利内野手との1対2の交換トレードで11年間在籍した広島から中日に移籍した。1988年9月9日の広島対中日(広島)で広島・長冨浩志投手からの死球に中日・仁村徹内野手が激高して両軍大乱闘。その際、長嶋氏は中日・岩本好広内野手にキックやパンチを浴びせるなど大暴れで、その両者が退場処分となった。あれから3年。因縁のチームに新加入だ。

 だからといっても何もない。「これでとやかく言ったらおかしいよ」と長嶋氏は笑う。中日サイドも同様だ。何事もなかったかのように受け入れた。「最初の挨拶の時は『岩ちゃんをぶっ飛ばした長嶋です』と言ったけどね。一応、自己紹介的には」。それで笑いをとってドラゴンズの一員となった。とりわけ、お世話になったのが落合だ。移籍1年目のキャンプでは打撃指導も受けたり、常に親身になって接してくれたそうだ。

「落合さんとは以前、食事に行ったことがあったんだよ。俺が広島で若い時で、落合さんがロッテで3冠王を獲った1回目の時(1982年)かな。(広島内野手の)高橋慶彦さんに連れられて、一緒に飯を食おうとなってね。あの時は酒ばかり飲まされて死にそうになったんだけどね」。それ以来、目をかけてもらっていたそうだが、長嶋氏の中日入りとともに、その関係はさらに深まった。「一緒にいることが多かったね」。宇野勝内野手を加えた3人でよく行動したという。

 広島では日本プロ野球初の背番号「0」で話題になった長嶋氏だが、当時の中日では種田仁内野手が「0」をつけており、移籍1年目の背番号は「4」。その「4」の“前任者”が1990年限りで現役を引退して、1991年から1軍走塁コーチ補佐に就任した岩本という縁もあった。星野監督の期待も大きく、4月6日の巨人との開幕戦(東京ドーム)には「6番・中堅」でスタメン出場。1988年から3年連続ゴールデン・グラブ賞の彦野利勝外野手を控えにしてまで使われた。

 長嶋氏も意気に感じた。元来、スロースターターだが、4月18日のヤクルト戦(神宮)で内藤尚行投手から移籍1号本塁打を放つなど、徐々に調子も上げていった。だが、まさかのアクシデントに見舞われた。いよいよエンジンがかかりだした6月8日の大洋戦(札幌)。「7番・中堅」で出て、2本塁打を含む2安打3打点と活躍した試合だったが、その守りで大怪我を負ってしまった。

守備中のアクシデント…右膝靱帯と半月板の損傷

「星野さんが(監督になってから)札幌円山球場で勝っていなかったということで、あの時は札幌に着いた当日から外出禁止だったんだよね。嘘でしょって思ったけど、万が一があったらえらいことになっちゃうから結局、ホテルに缶詰。で、試合では俺が2本打ったんだけどね」。長嶋氏の2発目が飛び出した8回表終了時点で中日が9-7でリード。悲劇はその後の守りで起きた。大洋のジェームス・パチョレック外野手の打球が中堅、右翼、二塁の間付近に上がった時のことだ。

「それを(中堅手の)俺と(二塁手の)種田が捕りに行ったんだけど、種田は背走していて、俺のことが見えてなかった。このままではぶつかると思って、ギリギリで反転してピッとよけたらスパイクが土の中にハマってしまった。あそこの球場の土は硬くてね、そのままの状態で膝だけがクリっとなって……。あの時が一番、息ができなかったかな。凄いパンチをボディに食らったよりも息ができなかった。ホント、膝から下が取れたかと思ったね」

 中日・大豊泰昭外野手におんぶされてベンチに戻った。「足の感覚がなくて『おい、大豊、俺の足、ついているか』と聞いた。そしたら『ついているよ、大丈夫、大丈夫』って」。試合は中日が9-8で勝利したが、長嶋氏は病院で「右膝靱帯と半月板の損傷」と診断された。野球生命にも関わりかねない重傷だった。「先生には『これは、ちょっと難しいんじゃないの』みたいなことも言われた」という。打率も.288まで上げていただけに悔しい離脱だった。

 その10日後の6月18日の大洋戦(ナゴヤ球場)では彦野が延長10回にサヨナラ本塁打を放った後の走塁中に右膝蓋腱断裂の大怪我をするなど、中日には手痛い故障が続いた。首位を走っていたペナントレースも8月終了時に4.5ゲーム差をつけていた2位・広島に9月だけでひっくり返された。9月24日には星野監督がこのシーズン限りでの退任を発表。竜ナインは「監督に優勝を」と奮い立ち、長嶋氏も9月28日に1軍復帰したが、結局及ばず2位に終わった。

「その時の俺ってまだギブスとかしていたんじゃないかなぁ」と長嶋氏は話す。通常ではとても試合に戻れる状態ではなかったそうで「監督が辞めるって言ったから、たぶん無理をしたんだと思う」と記憶をたどった。そして思い出したように、こう話した。「そうそう、(シーズンの)最後の方、星野さんにめっちゃ怒られました。『おめぇがバカ、あんな怪我をするから勝てんかったんじゃ、ボケー!』ってね。泣きそうやったな」。

 それが期待していたことを示す星野流の言い回しであり、今後に向けてのエールでもあった。そんな闘将の下で長嶋氏が選手としてプレーしたのはわずか1年。音、山田の有望な2選手を出してまでトレードで獲得してもらった恩を返すことはできなかった。すべては計算外の怪我が邪魔をした。中日移籍1年目は無念のシーズンになった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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