野球目的は「ほぼいない」 屈指の進学校にやってきた熱血監督…“火”をつけた2人の逸材

元西武の鈴木哲氏が語る高校時代
西武、広島でプレーした鈴木哲氏は、西武が黄金時代の真っ只中、1989年のドラフトで2位指名を受けた。1軍登板は84試合と決して多くはないが、独特のフォームから繰り出される速球で存在感を示していた。引退後、およそ4半世紀にわたり務めた西武を退団し、今は郷里の福島に戻っている。
少年時代は地元にリトルリーグなどのチームはなく、中学校から部活動で野球を始めた。時代は昭和50年代。1年生は球拾いからスタートだった。「2年生の途中からキャッチャーをやったり、サードだったり。ピッチャーをやりたかったんですけど、他にいたからできませんでした」。
進学したのは県下有数の進学校でもある福島高。ここでも希望通りに投手専任というわけにはいかなかった。そもそも部員の数が少なく、複数のポジションの兼任を求められた。高校3年間で、二塁以外はすべて経験したという。「最初は投げたり投げなかったり。ようやく背番号1をもらったのは、3年生の最後の大会でした」。同期には聖光学院高校の現監督である斎藤智也氏がいて、「彼と2人で投げていましたね」と振り返る。当時の監督は「お前は計画どおりだった。3年間でなんとか育てたんだよ」と話していたという。
進学校ではあったが、練習は「厳しかったですよ」と即答して笑う。入学時の監督は、前年に郡山北工高で甲子園出場を果たしていた。「その翌年にうちの学校に赴任してきたんです。野球に関しては熱血で、めちゃくちゃ厳しかったです」。鈴木氏や斎藤氏など良い選手がそろっていたのも、監督をその気にさせたようだ。
少ない部員…サボれぬ環境「隠れようもない」
人数が少ない中での猛練習は、ある意味、強豪校以上の厳しさもあった。「野球をやりたくて入学するという新入生はほぼいない。部員は各学年10人もいないので、隠れようもないし、すぐに順番が回って来る。手を抜けないんです。人数が多ければ、ノックでも待ち時間があって休めるじゃないですか。人数が少ないと、練習が大変なんですよね。さらにランニングメニューも量が多くて、監督が見ているからサボれない」。
「平日は授業が6~7時間目まであって、そのあと夜の7~8時くらいまで練習です。そこまで長時間の練習というわけではなかったかもしれませんが、自分には長く感じました。とにかく密度が濃かったですね」
一方で、強豪校とは違う部分も。「上下関係は全く厳しくなく、先輩後輩の仲が良かったこと」を挙げた。「監督1人がものすごくおっかないので、選手たちのベクトルはみんなそっちに向いていましたね。そのせいかむしろ上下の学年も含めて、選手たちの結束は強かったと思います」。人数が少ない中、監督から厳しい練習を課せられて、上級生と下級生の連帯は強まったようだ。
猛練習の毎日を過ごした結果、3年春は県ベスト4、夏は県ベスト8。残念ながら鈴木氏自身は、甲子園に縁がなかった。2年間の浪人生活を経て、慶大へ進学。「最初は野球をやるつもりはなかった」はずが、1年生から頭角を現し、全国区の投手へと急成長していく。
(伊村弘真 / Hiromasa Imura)