36歳で掴んだ“居場所” 紆余曲折の野球人生…台湾に認められた右腕の生き様

波乱万象…高塩将樹の野球人生
台湾プロ野球(CPBL)前期シーズンの首位を走る統一セブンイレブン・ライオンズ。ブルペンを支えているのが、異色の経歴を持つ36歳の日本人右腕、高塩将樹投手だ。
トルネード気味に体を捻り、左手を高く掲げて、真上から投げ下ろすフォームが特徴の高塩は、直球の制球力と、フォーク、カーブなどの変化球のコンビネーションで、今季ここまで、主に「勝ちパターン」のリリーフとして12試合に登板。回またぎの厳しい場面も任せられながら、ブルペン専任ではチーム最多となる19回1/3を投げ、2勝1敗1セーブ、防御率2.33、投球回あたりに何人の走者を出したかを表すWHIPは0.78と、非常に安定した成績を残している。
高塩は2012年から2016年までBCリーグの富山サンダーバーズと福島ホープスで5年間で37勝をあげた。高塩は2チームで主戦投手をつとめており、BCリーグのファンを中心にこの時代の高塩についてご存知のファンは一定数いるだろう。それ以降、2017年から現在まで、台湾における歩みを知る方は限られているかもしれない。
海外球界に挑戦する日本の野球選手は増えているが、高塩のようなキャリアを歩んでいる選手は稀だ。BCリーグ入りから渡台、台湾社会人チームでの7年半、そしてCPBLドラフト会議を経て統一ライオンズに入団するまでの歩みを紹介する。
BCリーグ入りは、ふとしたきっかけだった。神奈川県の高校球児だった高塩は、神奈川大進学後は野球を続けず、リーマンショック以降の景気悪化で就職がなかなか決まらない中、2010年にリフレッシュを兼ねてクラブチームの横浜金港クラブに入団した。
同年最後のクラブチームの大会で、初めてスピードガンのある球場で投げたところ、当時の自己最速となる141キロを計測。「ブランクがある中でこんなに出るんだ」と欲が出てBCリーグのトライアウトを受験したところ、富山サンダーバーズからドラフト1巡目指名を受けた。
富山では3年連続で100イニング以上投げ、2014年はリーグ2位の10勝、BCリーグ選抜にも選ばれ、クライマックスシリーズを控える巨人の1軍相手にも投げた。2013年オフ、来日したレッドソックスのテストをきっかけにABL(オーストラリアン・ベースボール・リーグ)を知った高塩は、海外球界への興味を覚えるようになった。2014年はABL参加を目標にプレーし、オフにはブリスベン・バンディッツでプレーをすることができた。
「何も資格も持っていない自分が、野球をやめたときに、就職して何ができるのか」
2015年、2016年は福島ホープスでプレー。この時期「建前上」はNPBを目指すという気持ちもあったというが、30歳を迎える前に海外でプレーしたいという気持ちが芽生えていたという。高塩はこの時の心境について「リーマンショックがあった時に、日本で就職するのは難しいという固定概念が自身の中であった。何も資格も持っていない自分が、野球をやめたときに、就職して何ができるのか。今更、資格の勉強をするにしても時間がかかるので、考えたときに『言語』かなと思った」と振り返る。
アメリカ独立リーグでのプレーにも興味をひかれたが、ビザ取得が厳しいことから断念。25歳だった当時、友人たちは社会で次第に活躍するようになっており、海外出張、特に中国に行く友人が多かった。そして「中国語や英語を覚えたら将来使えるな」と考えた高塩に、台湾でのプレーの機会が訪れることとなった。
高塩は2016年の年末、CPBLが中部・台中で開催した戦力外トライアウト兼外国人テストを受験。CPBL球団からのオファーはなかったが、帰国後、テストを視察していた台湾の強豪社会人チーム崇越隼鷹(現・全越運動)から連絡が入った。
実はこの直後には、複数の関係者を通じ、イタリアやオランダからのオファーも届いた。独立リーガーからすると魅力的な待遇であったが「金額よりも最初に連絡をいただいた台湾にしよう」と筋を通し、台湾行きを決断した。
そして、2017年2月に崇越隼鷹入団。当初は「1年後、もし違うところにいきたいと思えば、違うところを探したらいいし、自分なりのステータスやキャリアを積んでいければいいな」という感覚だったという。ビザの期間は1年。ただ1年勝負という気持ちではなく、自分が後悔しないように1日1日を過ごそうということだけ考えていたといい、高塩は「気づいたら今に至る」と語る。
入団翌月の2017年3月、アマチュア球界を代表する主要大会、大学・社会人の春季リーグがスタート。この大会で、いきなり防御率3位という好成績を残した高塩は大会後、練習中に監督から「来年どうするんだ」と聞かれた。「何も考えていない」と回答したところ、「来年もどうだ?」と聞かれたため、「よろしくお願いします」と答えたものの、あくまでこれは口約束。高塩自身、当時は台湾についても会社についてもよくわかっておらず、会社側も自分がどういう人間かをわかっていないと思われる中「いつリリースされてもおかしくない」というマインドでいたという。
中国語(台湾華語)習得も、台湾でのプレーを決めた動機のひとつであったが、当然、渡台当初はわからなかった。「当時はコンビニで『あたためますか?』という質問に対して何もわからなくて、ずっと指をさしたり……。僕の英語も通じないですし、どうしようと泣きそうでした。でも、ここを頑張れば、きっといい景色が見られるのではないかと考え、YouTubeや日本から買ってきた本を使って必死に実戦で学んできました。台湾人に台湾風の発音を直してもらったり、実践で学ぼうと、無駄に買い物をしに行ったり。『タピオカミルクティー、ひとつください』という言葉をぶつぶつ反復しながら、ナイトマーケットでひとり買い物したり」と振り返る。
「おそらく、もし野球だけやっていればいいやという気持ちであれば、今の私はいない」
高塩は、統一に指名されプロ野球選手となった現在は立場が違うと前置きをした上で「当時は上を目指すことよりも、契約していただいたこの会社(崇越)にどれだけ貢献できるのかということだけを考えていた。それプラス練習時間が日本と比較して短く、午前だけで午後は空いていたので勉強に充てようと。この時間を絶対に無駄にしないようにしようと思っていた。おそらく、もし野球だけやっていればいいやという気持ちであれば、今の私はいないです」と断言する。
「話せたら格好いい」というモチベーションもあり、チームの主戦投手として活躍しつつ、かつて巨人でプレーしたチームメートの姜建銘(現・監督)や、日本留学経験のある選手らのサポートも受けながら根気よく中国語学習も続けた。ようやく聞き取れるようになったと感じたのは、入団から約1年半後であったという。現在は、ファンの間でも評判の流暢な中国語を操る。
チーム名は崇越隼鷹から安永鮮物と変わったものの、高塩は依然、チームのエースとして君臨していた。2021年の年末、CPBLはドラフト制度において歴史的な改革を行った。台湾の中学、高校、大学に一定期間就学した外国人留学生及び、台湾居住5年以上で、かつ社会人チームで3年以上プレーした外国人選手について、外国人枠とせず、ドラフト指名の対象とする、事実上の外国人選手への門戸開放である。
高塩は翌2022年、CPBL入りを目指しドラフトに初参加。台湾メディアは、社会人野球の日本人エースのドラフト参加を大きく報じた。高塩は、指名資格を得ていない選手やスカウトにアピールしたい選手が参加する新人トライアウトで結果を残したものの、指名はなかった。
「年齢、年齢って言われちゃう。当時32歳とかだったので。そこはまあ、僕のなかでコントロールができないので、興味がある球団があればいいなあと思いながらドラフト指名を待ったんですけど、名前は呼ばれませんでした」
高塩はプロ入りを目標に、もう1年間頑張ってみようと決意するが、2023年7月のドラフト会議ではまたも指名漏れとなった。すると、翌8月に楽天モンキーズが、NPBの育成選手にあたる「自主培訓選手」での契約を提示した。しかし、CPBLは、外国人選手を外国人枠外で獲得するためには、ドラフト会議での指名を経る必要があるとして、この契約を無効とした。
2年連続の指名漏れに加え、オファーを受けながら規則に阻まれるかたちとなった高塩だったが、古巣は「戻ってこいよ」と歓迎、引き続きプレーの場が与えられたことから、気落ちすることはなかったという。むしろ、前年の2022年は指名回避の理由とされた「年齢」をひとつ重ねたにも関わらず、CPBL球団から評価されたことから、逆に「もっと能力をあげてやろう」とモチベーションが高まったという。
初の快挙も「20代だったら浮かれていたと思います」
そして、さらに1年間鍛錬を重ねた高塩は、主要大会で奪三振トップ3に入り、ドラフト会議へ直接する参加する権利を手にした。そして、2024年6月28日に実施されたCPBLドラフト会議で、統一から6位で指名を受け、外国人選手としてドラフト指名第1号選手となった。35歳での指名については、嬉しさよりも驚きが上回ったという高塩に「外国人初の快挙なのに、落ち着かれていて、ご自身を俯瞰していますね」と問うと「30代ですからね。正直、20代だったら浮かれていたと思います」と笑った。
昨年7月中旬に統一に合流した高塩は今、話題の古林睿煬(日本ハム)とも、約半年間、チームメートであった。古林は、高塩がたまに行っている、スピンを確認するための「かまぼこ板」を投げる練習に興味をもち、一緒に練習したこともあるという。
鍛え抜かれた体に甘いマスク、流暢な中国語、何より安定感抜群の投球内容で、多くの統一ファンの心をつかんでいる。マウンド上ではポーカーフェイス、グラウンド外では穏やかだが、日々黙々と努力を重ね、壁を突破してきた人物らしい意志の強さを感じる。35歳でつかんだ台湾プロ野球の舞台、今後のさらなる活躍を応援したい。
(「パ・リーグ インサイト」編集部)
(記事提供:パ・リーグ インサイト)