中日ドラ1入団も“嘲笑”の的 同僚から批判の声…浴びせられた「何でお前が1位なん」

現役時代の中日・荒木雅博氏【写真提供:産経新聞社】
現役時代の中日・荒木雅博氏【写真提供:産経新聞社】

荒木雅博氏はなかなか結果残せず…周囲からは批判的な声

 元中日の荒木雅博氏(野球評論家)は通算2045安打のレジェンド内野手だが、下積み期間が長く、プロ5年目の2000年までの安打数は「15」だった。プロ4年目の1999年は、中日がリーグ優勝を成し遂げたなか、16試合の出場で4打数1安打。1995年ドラフト1位だけに、周囲からの“風当たり”も強かったそうだ。だが、見返そうと思ったことは一度もないという。「いーーっさい、悔しくなかったです」と声を大にした。

 荒木氏は熊本県立熊本工からドラフト1位で入団し、2年目の1997年には1軍で63試合に出場した。俊足と守備範囲の広さは当時から定評があり、広いナゴヤドーム野球にはうってつけの人材と星野仙一監督も期待した。課題は打撃力で荒木氏の希望により3年目(1998年)からスイッチヒッターに挑戦。もちろん最初からこなせるものではなく、その年の1軍出場は7試合、ほとんどが代走、守備要員で打撃成績は1打数無安打だったが、それも覚悟の上だった。

 だが、周囲の声は入団以来、ずっと辛辣だったそうだ。「『お前が1位か』とかいろんなところでメチャクチャバカにされましたよ。先輩たちにも『何でお前が1位なん』『そんなんでよう1位やな』って言われましたしね」と荒木氏は明かす。そして語気を強めた。「でもね、いーーーっさい、悔しくなかったですもんね。そうだよね、俺ってそんなもんだもんなって。ま、もうちょっと頑張ってみるか、くらいだったんでね」。

 荒木氏は熊工2年時にレギュラーを外された時のことも「苦しくなかったです。打てなかったんですからしょうがないですもんね」と話したが、プロでも同じ感覚だったようだ。「見返したいとか、そういう気持ちを持ったことがないんです。“そうそう、おっしゃる通り、俺はそれくらいです”って思ってちゃんと自分のことを理解していたから(その後)ここまで来れたんですよ。あの時、見返したいとか言っていたら、絶対どこかで失敗しますから」。

 どんなに厳しい言葉をもらっても「言われっぱなしでした」という。そして「我慢はしました。もちろん我慢はするけど、最後には、ああそうだよなぁっていうふうに思って、その気持ちが練習をさせたというのがありますからね。自分の力をちゃんとした周りの評価と同じところに置くことができれば、それからの練習方法も変わってくるし、練習姿勢も変わってくるだろうし、そう難しいことではないです」と説明した。

元中日・荒木雅博氏【写真:木村竜也】
元中日・荒木雅博氏【写真:木村竜也】

社会人から入団した福留孝介は同い年「レベルが違いますもん」

 荒木氏は1995年のドラフト会議で、PL学園・福留孝介内野手と東海大相模・原俊介捕手のクジに連敗した中日の外れの外れ1位だったが、そんな因縁もあった福留が1998年ドラフト1位で中日入りした。1995年ドラフトで7球団競合の抽選に勝って交渉権を獲得した近鉄への入団を拒否して、社会人野球・日本生命に進み、さらに実績を積み重ね、3年後に逆指名制度を利用してのことだった。

 福留は1999年の1年目から132試合、打率.284、16本塁打、52打点の成績で中日優勝に貢献したが、荒木氏はこの同い年のドラフト1位についても、あっさりこう話す。「レベルが違いますもん。ライバル意識なんて全くなかったし、勝てるとも思っていなかった。あの時の僕はよくいって代走要員って感じで同じ土俵に上がっていませんしね。彼はバリバリにレギュラーを張って、日本球界を背負っていくんだろうなと思っていましたし……」。

 1999年の荒木氏は5月23日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)に代走で出場して以降、1軍での出番はなかった。5月30日のウエスタン・リーグのダイエー戦(雁の巣)では、前進守備の中、二塁走者の荒木氏は次打者の単打で本塁を狙ったが、アウトになり、試合後、仁村徹2軍監督から二塁から本塁への走塁練習を課せられた。「『お前はそういうところで生きていくんだから』と言われました。全く僕なんかサブで生きていく人間という感じで育っていたんでね」。

 敵地・雁の巣で二塁から本塁まで繰り返し走ったという。「仁村さんには走塁とか野球の細かいところを教えてもらいました」。1軍レギュラーの福留とは確かに立場が違い過ぎたが、そんな走塁練習が、のちに1軍で連発した荒木氏の“神走塁”にもつながっていく。それだけではなく、どんな時も冷静に自身の立ち位置を考えて、地道に練習、鍛錬に励んでいったことが最終的にはすべてプラスに働いていった。

 1999年9月30日のヤクルト戦(神宮)に勝利して星野仙一監督率いる中日の優勝が決まった。福留は「3番・遊撃」で出場していた。その試合を荒木氏は「寮で見ていた」と話し「“あれを見て悔しかったから僕も頑張ろうと思いました”って言った方がたぶん面白いんでしょうけど、本当に何とも思っていなかったのでねぇ」と言って笑った。翌2000年のプロ5年目は40試合に出場して10打数2安打。代走、守備要員の立場が変わり始めるのは6年目の2001年からになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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