理不尽な上下関係「躊躇なく殴る」 パシリと雑務の連続…18歳で“絶望”「何しに東京まで」

元ロッテ・服部泰卓氏【写真:尾辻剛】
元ロッテ・服部泰卓氏【写真:尾辻剛】

元ロッテ・服部泰卓氏、駒大1年時に感じた不安

 2007年の大学・社会人ドラフト1巡目でロッテに入団した服部泰卓氏は、2013年に51試合登板するなど中継ぎ左腕として8年間のプロ野球生活を送った。徳島の川島高時代に本気でプロ入りを意識し、腕を磨くために東都大学野球リーグの名門である駒大に進学。初めて経験する強豪の環境は、想像以上に過酷だった。野球を続ける意欲が薄れかけたという状況で出会ったのが、同じ左腕で172センチの自身より小さな青学大・石川雅規投手。後にヤクルトで大活躍する左腕の投球に衝撃を受け、モチベーションを再び高められたという。

 高校まで“無名”に近いチームでレギュラー争いを経験することなくプレーしてきた服部氏。厳しい環境の下で野球を続ける道を選択したが、駒大入学当初は戸惑いの連続だった。「凄かったですよ。驚きました。今までやったことがない環境。もちろん、野球の技術はうまい人ばっかり。ポジションもないし、レギュラー争いというのは自分が望んでいたことですけど、それ以前に、野球をやれない。(ベンチ入りの)メンバーに入らないと『空いてる時間に練習やっとけよ』という状況なんですよ」。

 1学年20人弱、全体で約70人の部員が所属。グラウンドはレギュラーを含むベンチ入りメンバー候補の約25人が練習で使用していた。「メンバーの練習が終わって、グラウンド整備も終わったら、空いたグラウンドを使ってもいい。室内(練習場)を使ってもいいし、そういう時間でメンバー外はやらないといけない。メインはメンバーの手伝いなんですよ」。やることといえば打撃投手、外野でのボール拾いなど練習のサポート。それが終わってから自主練習となる。

 加えて、野球以外の雑用が多岐に及んだ。「1年生の仕事って山ほどあるんですよ。先輩の洗濯、道具の片付け、ボール磨き……。寮に戻ったら食事の配膳、食器洗いもある。当時は固定電話だったので電話番もありました。それに使いっぱしりも……。今までの環境と違いすぎて、戸惑い以上に『僕は何しに、この東京まで出てきたんだろう』って感じました。プロ野球選手になりたくて、野球でガンガン頑張ってレギュラー争いして、と思っていたのに……野球もやっていないのにレギュラーなんて争えない」。気持ちはどんどん沈んでいった。

 覚悟していた過酷な環境も想像を超えていたようである。「上下関係はかなり厳しかったです。理不尽なことが多すぎて『こんなに簡単に躊躇なく人のことを殴ることができるんだ』ぐらいの感じでした」。入寮から1か月が経過し「4年間やれんのかな、この環境で。続けられるのかな、本当に」と不安が広がっていく中、東都大学野球の春季リーグ開幕を迎えた。

 開幕日の2001年4月10日。試合がなかった駒大は、今後の対戦相手の偵察のため部員全員で神宮球場のスタンドに陣取った。「僕も一応行くんですけど、試合に出るわけでもないし、『寮での雑用がないからいいか、ラッキー』ぐらいの感覚で見てたんです。初めての神宮球場だし、『これがヤクルトの球場か』って感じでいました」。第2試合は青学大と中大が対戦。ここで服部氏は青学大の小さなエース石川に目を奪われていく。今年4月、プロ野球史上初となる24年連続勝利を挙げた偉大な左腕は大学時代から格が違っていたのである。

小さな大エースの快投に衝撃「こんなピッチャーになりたい」

「当時は既にドラフト1位候補で有名だったんですけど、僕は知らなかったんです。徳島でそんな高いレベルでやってないし、大学野球の好投手の存在すら知らなかった。だから、1戦目ってエースが投げるはずなのに『何であんなに背が低くて、細くて、頼りなさそうな人がマウンドに立ってんだろう』と思って見たんですよ。『青学大、よっぽどピッチャーいないんだなぁ』って。でもプレーボールがかかって、投げた瞬間から釘付けになって……めちゃくちゃ凄かったんですよ」

 167センチと服部氏より5センチ小さな左腕はマウンドで躍動した。直球は球速140キロ前後でも「スピンが利いて『ギューン』っていって前に飛ばないんですよ」。そう目を輝かせて振り返り、こう続けた。「真っすぐに合わせたらチェンジアップとか全然当たらないんです。左バッターにはその年から投げ始めたカットボールがあって、真っすぐのように見えるから空振りになる。凡打の山で全然寄せ付けないピッチングをしてたんです」。

 1-0の完封勝利。僅差だが「試合が10回、15回、20回と続いても、このピッチャーから点が取れるイメージが全く湧かないくらい圧倒的でした」という。「『こんなピッチャーになりたいな』ってメチャクチャ憧れました」。その感情は川島高時代に対戦した阿南工高・條辺剛投手(巨人)に抱いたものと似ていたが、異なるものでもあった。

 188センチで150キロ近い剛速球が持ち味だった右腕の條辺と、小柄な石川ではイメージが違う。「條辺さんと対戦した時は『格好いいな』『凄いな』『こういう人がプロ行くんだな』と感じました。その時、プロ野球選手になる人って、持って生まれた能力だったり、体のスケールとかがないと行けないのかと頭の片隅に少しあったかもしれない。自分がプロに行けなかった時の言い訳になりますから」。167センチの石川の姿は、そんな考えを吹っ飛ばしたのである。

「石川さんは僕より背が低いし、当時は僕と同じようにガリガリだったんですよ。でも圧倒的なピッチングをされる。こんなん、体の小ささは言い訳にならない。僕より小さい人が、こんなに躍動している。條辺さんの時以上に、自分と似たような背格好で左手で投げているという共通点があったので、より憧れました。自分の目指すスタイルというか『こんなピッチャーになるために、僕は徳島から東京に出てきて勝負をかけに来たんだ』と再認識できました」

 初めての環境に戸惑い、心が荒んでいく中、一気に視界が開けた。「僕は前人未到のことをやろうとしているのではなくて、石川さんがちゃんと道を切り開いてる。あの人みたいになるって思って、薄れてた自分の目標、大学に入ってかすんでた考えにもう1回、火がついたんです」。すぐに環境、状況が変わるわけではない。多くの雑用も続いたが「時間がないとか全部言い訳。何するにしても、3年後あのマウンドで石川さんみたいになっているために今があるという考えにしたんです」。やることすべてに自分なりの意味を持たせて行動。前向きな姿勢を取り戻し、徐々に名門での立場も変わっていった。

(尾辻剛 / Go Otsuji)

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