西武台・河野創太監督が忘れぬバント練習「そんな高校生いない」 異色の経歴で培われた“信条”

高校時代に明け暮れたバント練習「生き残れなかった」
第107回全国高校野球選手権埼玉大会は9日、139チーム(153校)が参加し開幕した。昨秋の県大会で準優勝したシードの西武台は、初戦となる2回戦で岩槻商と顔を合わせる。夏は過去7度あったベスト8が最高成績だけに、準々決勝突破が目標となる。異色の来歴を持つ河野創太監督が就任して12年目となる今夏、チーム史に新たな戦歴を刻めるか。
埼玉・狭山市立狭山台中時代から俊足、巧打の内野手として軟式野球で活躍し、複数の有力高校から誘われたが、本人には知らされなかった。ひょんなことから中学3年の夏休み、神奈川の名門・桐蔭学園のセレクションを受けたら望外の合格通知が届いた。寮生活ということもありあまり気乗りしなかったが、ともかく入学した。
入寮間もない頃に3回素振りをしたら、土屋恵三郎監督から左打ちを命じられた。選考会の短距離走では一番の韋駄天とあり、快足を生かすため左打ちに変えたのだ。マシンを使った打撃練習で周りが快音を響かせる中、ほぼ1年間に渡りバント練習に明け暮れた。
「10打席あったら7回はバント。そんな高校生いないと思いますが、やらないと生き残れなかった。3年春の地区大会で33-0という試合があり5打数5安打でした。5打席ともセーフティバントのサインが出て全部成功させました。3年の春と夏に一桁の背番号をもらえたのは、これを徹底したからです」
ただ、右打ちから左に変わり、ボテボテのゴロを求められた3年間、野球を楽しいと思ったことは一度もなく、高校で辞めるつもりでいた。
2014年に西武台へ赴任すると、『自主、自立、自治』をスローガンに掲げた。「ロボットではないのだからサインばかりに頼らず、自分で考えて判断し行動しないといけない」というのが信条だ。
「思い描いていた高校野球人生ではなかった」
これをテーマにした背景を尋ねると、「私がロボットだったからです。こんな自分を育ててくれた土屋さんはすごい監督ですが、型にはまったプレーを要求され、思い描いていた高校野球人生ではなかったんですよ」と回想した。
桐蔭学園の先輩に勧められ、法大準硬式野球部のセレクションに挑戦したら受かった。ところがいざ出願という段階になったら、選考会に応募できるのは夏の県大会か秋の関東大会で4強以上という基準が判明し該当しなかった。
続く順大硬式野球部の一般推薦試験は、実技は満点だったが小論文で不合格。明大準硬式野球部からも、一般入試で5~6割正解という条件付きで合格の言質を取り付けたが、全く解けずに落ちた。4つ目の日体大でようやく桜が咲いた。
若い頃から随分とドラマ仕立ての経験をしてきたものだ。「生徒によく言うんですよ。大学受験で失敗したくらいで気にするなよ、って」。
兄の恩師から連絡「妻の言葉に背中を押され応募」
日体大では因縁の法大を倒そうと準硬式野球部に入ったが、大会での不手際で東都大学リーグ2部から6部へ降格。2年で軟式野球部へ転部し、4年では全日本代表となる。
卒業後はSANYOで軟式野球を続けるか、1カ月の教育実習を済ませた教員か、内定していた埼玉県内の市役所の3択から教師の道を選んだ。埼玉県公立学校教員採用選考試験には落ちたが2005年4月、私学の秀明に就職し野球部監督にも就いた。だが土日は部活動禁止で、夏の埼玉大会前は練習試合を3日しか組めず、奉職5年で辞した。
その後、私学に20校ほど応募したが、保健体育科教諭の募集は少なく書類でほぼ“足切り”された。そんな折、東横学園中学・高校が2010年から東京都市大学等々力中学・高校に校名を変え、男女共学になるため教師を募集。1度は断られたが、当初の2クラスから6クラスに3倍も増えたことで一転、採用された。
中学軟式野球部を創設し、1期から4期生までを指導。「環境や待遇面も良く妻の実家も近いし、ずっとこの学校で働くつもりでした」との腹積もりだったが……。
4年目の10月、法大から横浜ベイスターズ(現DeNA)に入団した兄・友軌の狭山清陵高の恩師、新井清司から西武台が体育で野球部監督を探しているという連絡がきた。
安定した職場でやりがいも感じていたが、「好きなことをやればいい、と言ってくれた妻の言葉に背中を押され応募しました。高校野球で指揮を執れるのが一番の魅力だった。それにしても、高校入学から始まって大学選びに職探しといい、人生って色々なことがありますね」と自らの遍歴をしみじみとかみ締めた。
◯著者プロフィール
河野正(かわの・ただし)1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部でサッカーや野球をはじめ、多くの競技を取材。運動部長、編集委員を務め、2007年からフリーランスとなり、埼玉県内を中心に活動。新聞社時代は高校野球に長く関わり、『埼玉県高校野球史』編集にも携わった。著書に『浦和レッズ・赤き勇者たちの物語』『浦和レッズ・赤き激闘の記憶』(以上河出書房新社)『山田暢久 火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ 不滅の名語録』(朝日新聞出版)など。
(河野正 / Tadashi Kawano)