天国に旅立った名将「父ちゃん」 法政高・佐相監督の“親子鷹”「目標の人」

今年1月に亡くなった佐相眞澄氏に「育成功労賞」が贈られた
高校野球の育成と発展に貢献した指導者に贈られる「育成功労賞」。神奈川からは今年1月24日、すい臓がんで亡くなった佐相眞澄氏が選ばれた。66歳。前年12月まで県相模原高の監督を務めていた。
もともとは中学校の教員で、相模原市立大沢中、東林中を率いて全国大会に出場。2005年からは指導の場を高校に移し、川崎北高で2007年秋にベスト4、県相模原高で2015年春に関東大会出場、2019年夏に横浜を破ってベスト4入りを果たすなど、数々の実績を残した。打撃指導に定評があり、毎年のように打ち勝つチームを作り上げていた。
7月7日、横浜スタジアムで行われた「第107回全国高校野球選手権神奈川大会」の開会式で長男・健斗が父の写真とともに表彰を受けた。父が最後に指導していた県相模原高の部員から、「いいぞ、いいぞ、眞澄!」のコールが送られた。
長男は父と同じ指導者の道を歩み、東京・法政高の監督を務めている。今年34歳を迎えた。「この間、亡くなってから初めて、父が夢に出てきたんです。どんな夢だったかは覚えてないんですけど、目が覚めたときには涙がこぼれていて『やっと会えた……』って。受け入れないといけないんですけど、まだ父がいない現実が信じられません」。
高校時代(川崎北高)は父のもとでプレー。日体大を卒業したのち、2014年に法政高の教員に就いた。高校の助監督、法政中の監督を経て、2020年から高校の監督を務める。この春は6年ぶりにベスト16に勝ち進み、夏のシード権を獲得した。
息子から見た父親は「僕が小さい頃からずっと、厳しくて優しくて、かっこいいお父さんです。“かっこいい”というか、“かっこつけ”ですかね(笑)。人が大好きで“人たらし”。周りからよく見られたくて、『佐相眞澄』を演じていたところもあるかもしれません。家ではぼくだけ、『父ちゃん』と呼んでいて、友達みたいな感じでした」
表彰時で息子は父のスラックス、ネクタイを着用
育成功労賞の表彰時には、父が履いていたスラックス、愛用のネクタイを身に着けていた。父が身長180センチで息子は181センチ。「体型が似ていたので、ぼくの洋服を父が着ているときもありました」と笑う。
学生時代に一度だけ、「野球を辞めたい」と思った時期がある。
「父の打撃理論もわかっていたので、自分が一番成長できる場所」と、迷うことなく選んだ川崎北高。「親子で目指す甲子園」ではあったが、スタメン(左投左打/外野手兼投手)で起用されると、インターネット上に「息子だから使われている」といった書き込みがあり、心を痛めた。
「初めて野球を辞めたいと思いました。周りの人を信用できなくなってしまった。でも、辞めても何もならない。とにかく、頑張って練習をして戦うしかない。父にたくさん苦労をかけたと思います。嬉しかったのは、2人でいるときには、こうした書き込みに対する愚痴や不平を一切言わなかったこと。父も辛かったと思うんですけど、ぼくの前ではそうした姿を見せませんでした」
2年生の夏(北神奈川大会)にベスト8、3年生の夏にはベスト16に勝ち進んだ。「ともに高みを目指したあの時間は、宝物です」としみじみと語る。3年夏、最後の舞台は横浜スタジアムだった(三番センター)。試合後、監督である父が運転する車に、息子と母が同乗し、相模原の自宅まで一緒に帰った。
「3年間よく頑張ったよ。よく乗り越えたな。ありがとう」。父から掛けられた言葉は、忘れられない宝物として心に残っている。ちなみに、今夏の開会式では高3夏以来、実に16年ぶりに横浜スタジアムのグラウンドに下りた。「懐かしさとともに、神奈川の高校野球っていいなぁと改めて思いました」と感慨深げに振り返っていた。
指導者になって痛感した父の偉大さ
将来の職を考えるとき「父と同じ指導者の道には進みたくない」という気持ちがあった。最大の理由は「父と比べられるから」。しかし、不思議なもので、結果的に同じ道に進んでいる。日体大に進んだのは、OBでもある父からの紹介だ。
「大学卒業後は、青年海外協力隊としてグアテマラで野球を教えたいと思っていたんです。広い世界を見て、いろんな経験をしたあとに、いずれは指導者に……とは思っていました。でも、試験で落ちてしまって、そのときに日体大の古城(隆利)監督から法政高を紹介していただきました」
指導者になったのち、野球関係者に「佐相健斗」と書いた名刺を差し出せば、「もしかして、佐相先生の……」と声をかけられたという。最初はそれに抵抗があったが、そのうち指導者としての父に誇らしさを感じ、前向きに捉えられるようになった。「父の存在のおかげで、相手校の指導者の方とも話がはずみ、父のつながりで練習試合を組めたこともたくさんあります。父の偉大さをより実感するようになりました」。
家で打撃理論を交わすことも増えた。今までは教わることが多かったが、自分自身で打撃理論を研究するようになり、「父ちゃん、アウトコースを打つときの骨盤の使い方は……」と持論を展開するようにもなった。「『それは違う!』と言われたこともあります。でも、今になってみれば、そういう時間がとても幸せでした」。
2020年に法政高の監督に就いてからは、毎年、父が率いていた県相模原高と練習試合を行うようになった。昨年まで5連敗で1度も勝てず、ベンチからキャッチャーに出していた配球のサインを父に読まれ、見事に打たれたこともある。今年6月に、法政高と県相模原高の両校で追悼試合が行われ、ようやく初勝利を挙げた。が、本音を言えば、父がベンチにいるときに勝ちたかった。
「常に自分の目標で居続けてくれてありがとう」
「父のすごさは、人をまとめる力です。よく『束になる』という言葉を使っていたんですけど、選手、保護者、スタッフが一体になって戦っている。それを生み出しているのは、監督の指導力で、『この監督についていけば勝てる』という信頼感があったと思います。自分にはまだその力がありません」
高校野球では珍しく、保護者との距離が近い指導者だった。年に1回、夏の大会前にはカラオケで盛り上がることもあった。「さすがにカラオケはできないですけど、練習試合のときから積極的に保護者の方と話すようにしています。それは父の指導から学んだことです」
2025年2月9日、相模原市の祭場で葬儀が営まれた。喪主を務めたのは、長男・健斗。最後の挨拶では、父の遺影を前に涙声で手紙を読み上げた。「昨日(通夜)、改めて思ったことがあります。父ちゃんあなたは本当に幸せで、人に恵まれた人生だったね。たくさんの人に囲まれながら、最後を迎えらえることって本当に幸せだね。それと同時に、父ちゃんの偉大さに改めて気づかされました」
「自分には父ちゃんのような、人を束ねて、活性化させる力は今のところないけれど、いつか父ちゃんのように生徒や集団を心から動かせられる人間になりたいって思っています。父ちゃんは父でもあり、目標の人でもあります。あまり大きなことを言えないけど、いつか父ちゃんがたどり着いた場所に自分も立ちたいと思います。常に自分の目標で居続けてくれてありがとう。何よりここまで育ててくれてありがとう。いつも味方でいてくれてありがとう。家族を明るくしてくれてありがとう」
いつかは父に追いつき、父を超えたい。そして、果たせなかった甲子園の舞台へ。佐相健斗監督は、父の想いを背負いながら、これからも戦い続ける。
(大利実 / Minoru Ohtoshi)
○著者プロフィール
大利実(おおとし・みのる)1977年生まれ、神奈川県出身。大学卒業後、スポーツライターの事務所を経て、フリーライターに。中学・高校野球を中心にしたアマチュア野球の取材が主。著書に『高校野球継投論』(竹書房)、企画・構成に『コントロールの極意』(吉見一起著/竹書房)、『導く力-自走する集団作り-』(高松商・長尾健司著/竹書房)など。近著に『高校野球激戦区 神奈川から頂点狙う監督たち』(カンゼン)がある。