出番激減で覚悟「順番的に僕かな」 8年目ドラ1の戦力外…引退決断もなかった“ポスト”

元ロッテ・服部泰卓氏、ブレーク翌年に欲が生じて暗転
2007年の大学・社会人ドラフト1巡目で3球団競合の末にロッテに入団した服部泰卓氏は、6年目の2013年にプロ初勝利を挙げるなどブレークした。主に左打者キラーとして中継ぎで自己最多の51試合に登板し、2勝1敗20ホールド、防御率3.38を記録。3位で進出したクライマックスシリーズでも3試合に登板した。さらなる飛躍を期した2014年、前年の活躍で「今のポジションを守りたい」と欲が生じて暗転。力みから成績が悪化してしまったのである。
トヨタ自動車の3年目でドラ1の評価をつかんだ「キャッチャーミットに思い切り投げるだけ」という境地。崖っぷちに立たされたプロ6年目の2013年は「自分が一番得意なスライダーを、思い切り腕を振って投げる」という原点回帰で、輝きを放った。2014年も同じようにやれば問題ない。ところが……。
「これがまた自分の未熟なところで、せっかく自分が築いたポジションなんだから『ミスせずに、このポジションを守りたい』とか、そういう欲が出てしまったんです。『やれることだけをやる』というのを続ければいいのに……。そこが未熟な部分であり、人間の面白いところでもあると思うんですけどね」
3月28日のソフトバンクとの開幕戦(ヤフオクドーム)。4-6と2点差に迫った7回から3番手でマウンドに上がったが2安打1四球を許し、わずか1死を取っただけでマウンドを降りた。追い上げムードがついえる3失点。1年前の開幕戦でプロ初勝利を挙げたのとは対照的なスタートとなった。2度目の登板となった4月1日の西武戦(QVCマリン)は6回途中から救援も、打者2人に2安打されて降板。自身に失点はつかなかったものの、先発投手が残した走者を還してしまった。
結果を気にせず、自分の球を思い切り投げるだけのつもりが、「いい投球をしよう」「抑えたい」という欲が出てしまい、見失った本来の姿。「僕は『失敗』っていう言葉が嫌いなので、使わないんですけど、そういった経験をできたということが、今の自分をつくっているので凄く人間としての厚みは出たのかなと思います。良くない時期からいい時期まで、いろいろ経験できたので伝えていくことができる」。今ではそう振り返ることができるものの、当時は精神的にきつかったのは言うまでもない。
1軍登板なしに終わった8年目の2015年、現役引退を決断
結局、7年目は9試合登板と出番が激減。0勝0敗1ホールド、防御率8.31に終わった。負のスパイラルに陥ると簡単には抜け出せない。2015年は2軍で33試合に登板して2勝0敗1セーブ、防御率4.91。一度も1軍に呼ばれることはなかった。そんな背景もあり「誰かが戦力外にならないと、新しい選手を獲れない。枠を空けないといけないし『順番的にいったら僕かな、今年出番なかったし』という感じで心の準備はしてました」と戦力外通告を覚悟していたという。
とはいうものの、10月3日に球団から契約を更新しないと告げられると複雑な思いが一気に押し寄せた。「小学校1年から野球をやってきました。6歳から33歳まで野球のことだけ考えてきた人生。明日からそれがなくなるのかと思うと、とっても寂しい思いはありましたね」。人生の岐路を迎えた33歳の秋。「引退はいつか来ることなんですけどね。『いつか来るけど、自分には来ないんじゃないか』って思いもあったりして……。想像がつかなくて『野球のことを考えない日々って来るの?』って寂しい思いが凄くありました」。
東都大学野球リーグでベストナインに選出された駒大4年秋、日本代表にも選出されたトヨタ自動車2年目と、2度の指名漏れを経験した末に社会人3年目で念願のプロ入り。1、2年目は1軍出場がなく、ブレークしたのは6年目だった遅咲きの左腕は、寂しさを抱きつつ8年間のプロ野球生活に別れを告げる決意を固めた。
ドラ1で入団したものの、現役引退の際に球団からポストは用意されなかったそうだ。楽天から打撃投手としての打診を受けたものの「関西か関東かのこだわりがあったので、お断りさせていただきました」。徳島の川島高から大学進学の際も強く影響した“都会志向”で、関東圏に残って第2の人生を歩んでいく決断を下したのである。
「いずれは野球を辞めるので、辞めた後もやっぱり豊かな人生にはしていきたいなって思いはありました」。トヨタ自動車時代以来、9年ぶりにサラリーマン生活に戻った服部氏。駒大野球部がつないだ縁で駒大の先輩が経営する会社で働き、2023年に独立して現役時代の背番号を社名にした「20」を設立した。「代わりの利かない存在になりたい」。唯一無二の存在を目指したプロ野球選手時代と同様、前向きに挑戦を続けていった。
(尾辻剛 / Go Otsuji)