日本代表候補から“消えたスカウト” 秋田で就職のつもりが…プロ入りできたワケ

元ヤクルトの鎌田祐哉氏…早大3年春に4勝挙げリーグV貢献
ヤクルト、楽天とNPBで11年間プレーし、2012年には台湾プロ野球の統一ライオンズで最多勝のタイトルを獲得した鎌田祐哉氏は現在、都内でサラリーマンとして働いている。2012年限りで現役を引退し、不動産業界に転身。プロ野球選手時代とは全く違った忙しい日々を送る。現役時代、最速151キロを誇る投手として活躍した右腕が頭角を現したのは早大時代。3年春には4勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、一躍ドラフト上位候補として注目されるようになった。
秋田経法大付高では3年春に甲子園出場を果たしたものの、2番手投手の立場で聖地では出番なし。そんな右腕が早大では1年春から東京六大学野球リーグ戦に登板して徐々にスポットライトを浴びていった。ただ、2年秋の時点ではリーグ戦通算1勝11敗。野球部の同期には『俺、秋田に帰って就職するよ』と話していた。
転機は2年冬。「それまではあまりやっていなかった筋トレを、かなりやりました」。まだ野球界が積極的に筋力トレーニングを取り入れていない時代。先取りするかのような練習が鎌田氏の未来を変えることになる。
迎えた3年春のリーグ戦。「筋トレが功を奏したのか、ボールが力強くなった感じがしました」。1学年上で後にヤクルトで最多勝を獲得する藤井秀悟投手とのダブルエースで進撃を続けた。2人で4勝ずつを挙げて11季ぶりのリーグ優勝を達成。全日本大学選手権では初戦となった東農大生産学部(現・東農大北海道オホーツク=北海道学生野球連盟)との2回戦で1-0完封勝利を挙げるなどチームを波に乗せて決勝に進出した。
青学大(東都大学野球連盟)との決勝は、幼なじみで1学年下の相手エース石川雅規投手(ヤクルト)に投げ負けたものの準優勝。日米大学野球の大学日本代表メンバーにも選ばれ、一躍プロ野球のスカウトからも注目される存在となった。「それで筋トレにはまっちゃって……。『いいボールが投げられる』『もっと筋トレしよう』。その繰り返しですね。それで一気に成長した感じでした。だから今でも筋トレは好きで、週1回はやるようにしているんですよ」。
急成長で評価上昇…ドラフト2巡目でヤクルト逆指名
早大時代、3年春が唯一のリーグ優勝。以降はエースとしてフル回転した。3年春以降は12勝6敗と成績が急上昇。「プロ注目って言われるようになって『あれっ、もしかしてプロに行けるのかな』って……。そこからですね。本当にプロ野球を感じられるようになったのは」。リーグ戦通算13勝17敗、防御率2.40、231奪三振の記録を残した。4年時にはシドニー五輪の日本代表候補にもなり強化合宿に参加。自信を深めていった。
スカウトの間でも評価が高まり、2000年ドラフトの上位指名候補に。当時のドラフトは逆指名制度(1993年に導入。2001年から「自由獲得枠制度」、2006年を最後に廃止)があり、大学生と社会人の有力選手は1球団2人まで希望のチームを宣言して入団することができた。早大のエースとなった右腕の視察に複数の球団が訪れていたという。
「『プロ野球の球団からいくつか話が来てるよ』って聞いていました。でも4年生の秋は調子が上がらず、どんどんスカウトもいなくなって、そんな中で最後までヤクルトスワローズが熱心に来てくれていたので、逆指名させてもらいました」。そう謙遜する鎌田氏は、前年に早大の先輩左腕・藤井が入団していることや本拠地が慣れ親しんだ神宮球場ということもあり、ドラフト2巡目でヤクルトを逆指名した。
ちなみに同年ドラフトでは同学年の中大・阿部慎之助捕手(巨人監督。現役時代は通算406本塁打含む2132安打)が巨人を1巡目で逆指名。横浜(現DeNA)の1巡目指名は4歳下で通算2186安打を放つことになる大分工・内川聖一内野手である。「同学年で代表的な選手は誰かって言われれば、やっぱり阿部慎之助ですよね。監督にまでなりましたし」。
早大で急成長して小学生の頃に描いた夢のプロ野球選手の仲間入り。「大学時代はいい思い出です。早稲田に入って良かった。エースとしてマウンドに立つことができましたし、特別な感じでみんなに応援してもらいましたし、凄くありがたいなって思います」。ヤクルトでもエースを目指して新たな舞台へ。1年目から1軍に上がってプロ初勝利を挙げるなど、順調なスタートを切った。
(尾辻剛 / Go Otsuji)