心をえぐった新聞報道「ガクッときた」 終わらぬ負の連鎖…軋む右肩「手術したらクビかな」

ヤクルト時代の鎌田祐哉氏【写真提供:産経新聞社】
ヤクルト時代の鎌田祐哉氏【写真提供:産経新聞社】

元ヤクルトの鎌田祐哉氏…4年目以降は悩める日々

 2012年に台湾プロ野球の統一ライオンズで最多勝など3つのタイトルを獲得した鎌田祐哉氏は、ヤクルト時代は1年目から活躍。3年目には6勝中2勝が完封勝利と先発ローテーション投手としての地位を着々と固めつつあった。4年目の2004年は神宮での開幕2戦目、4月3日の横浜戦に先発登板。首脳陣の高い期待を受け、6回1/3を3失点とまずまずの投球を見せてチームの白星に貢献した。ただ、このシーズン初登板を含めて前半戦は好投しても自身に白星がつかず徐々に歯車が狂いだす。悩める日々が始まった。

「調子は悪くなかったんですけど、最初の方で勝ちに恵まれなくて……。リードして降板しても逆転されたりするうちに、自分で自分を追い込んじゃうところがありました」。繊細なタイプの右腕は、自己啓発本を購入して読み込んでから「大丈夫だ。自分は必要な選手なんだ」と気持ちを高めて登板することもしばしばあったという。「僕は結構、言われやすいタイプだと思うんですよ。『また高めにいった』とか『抑えてもたまたまだ』とかよく言われていたので、自分で自分を『駄目だ』と追い込むところがあったんですよね」。

 結果よりも内容が気になった。「変な話なんですが、例えば内角に抜けたスライダーで空振り三振を取っても嬉しくないんですよ。むしろ外角のいいコースに投げたスライダーをヒットされた方がホッとするというか……」。結果オーライでは評価につながらない。とはいえプロ野球は結果も求められる。「『また内角に抜けてる。たまたま抑えたから良かったものの』って言われるんですよ。『結果的に抑えてるから次につなげよう』というふうには、気持ちを持っていけなかった」。複雑な思考回路の狭間で心は揺れ動いた。

「ベンチを見て試合する選手って、いくらかはいると思うんですね。僕がまさにそんな選手でした。『あいつ、また四球出すんじゃないか』とか『打たれるんじゃないか』とか、そう思われている気がして集中できていない感じでした。相手を抑えることよりも、いい球を投げることに注力していました」。必死に腕を振り続けたが、状況は好転しない。5試合に先発した後、2軍落ち。中継ぎにも回り、再び先発マウンドに上がったのは8月8日の横浜戦(横浜スタジアム)だったが、ここでも7回1失点の好投でチームは勝利したものの、自身に白星がつくことはなかった。

 厳しい言葉を浴びてもへこたれないような、陽気なタイプに見える鎌田氏だが、実際はかなりナイーブな面がある。さらに気持ちが沈む出来事があった。先発した試合の打席で送りバントを失敗。「次の日のスポーツ紙で、僕のバント失敗で負けたみたいな記事が書かれていて。事実、バントを失敗してますし、そうなんでしょうけど、もはや敗戦の原因が投球内容よりバント失敗って……。僕の評価って、そんなもんなんだなって、一気にガクッときたというか、ショックを受けたことは記憶にありますね。まあ、自分の実力不足、弱さに負けたと言ったらそれまでなんですけど、嘘でも『信頼してる』ってマウンドに送り出してもらえたらなって当時は思っていましたね」。

ヤクルト、楽天などでプレーした鎌田祐哉氏【写真:尾辻剛】
ヤクルト、楽天などでプレーした鎌田祐哉氏【写真:尾辻剛】

7年目の2007年、春先に右肩腱板不全断裂の重傷

 結局、先発10試合を含む16試合に登板して1勝3敗、防御率6.26とプロ入り後ワーストの数字が並んだ。精神面で完全に袋小路に迷い込んでしまい、負のスパイラルから抜け出せない。翌2005年は初めて1軍登板なし。2軍でも22試合で5勝8敗、防御率4.19とピリッとしなかった。2006年は1軍で先発4試合を含む13試合に登板して3勝1敗と上向いたようにも見えるが、防御率は5.06と不本意な数字。2軍でも中継ぎで25試合に投げて0勝1敗、防御率4.33と安定感を欠いた。

 迎えた7年目の2007年、さらなる試練に見舞われる。「春のキャンプ前に、右肩が痛くて。毎朝起きると、肩が痛くて吐いたりしていました。病院で診察してもらい『右肩腱板不全断裂で50%断裂している』と言われました」。小3で野球を始めてから初めて経験する大きな故障だった。不幸中の幸いだったのは、断裂が50%だったこと。手術か保存療法かの選択肢が与えられた。「手術したら時間もかかるだろうし、もう駄目だろうなって、『クビかな』って思ったので、リハビリで治す選択をしました」。

 シーズン中の復帰が絶望的となる手術は回避したものの、地獄のリハビリが始まった。投げられない状況でやれるのは走り込み。練習開始から終了まで、ひたすら走った。「走るしかないので、ランニングメニューも地獄でした。当時のリハビリ組で、毎日吐くほど走ってました。次の日の練習に行きたくないって本気で思ったのは、中学生以来でしたね」。理不尽なしごきを受けた秋田北中時代を思い起こさせるハードさだったようである。

「徐々にキャッチボールを始めていく中で、投げ方も試行錯誤しましたし、自分に向き合って真剣に考えた時期でしたね」。自分を見つめ直しながら、黙々と走り込んだのが功を奏したのか、実戦復帰すると2軍で9試合0勝0敗、防御率2.00。1軍に上がるとさらに調子が上がり、1試合先発を含む22試合に登板して0勝1敗3ホールド、防御率1.16と上々の成績を残した。ようやく示した復調の兆し。それでも「手応えはなかったですね」と当時の感覚を振り返る。

 上向いたように見えても何かが違う。中継ぎ起用で仕方がない面があるものの、シーズン0勝は1軍登板がなかった2005年を除くとプロ入り7年目で初めて。結果的に前年の2006年9月27日の巨人戦(神宮)で中継ぎとして挙げた同年の3勝目が、日本で記録した最後の白星となる。両リーグ最多タイの2完封を記録した2003年のような輝きを取り戻せないまま、苦しい時間だけが過ぎていった。

(尾辻剛 / Go Otsuji)

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