緊急昇格で好投続くも2軍行き…砕かれたプライド「僕は信頼がなかった」 悟った“立ち位置”

元ヤクルトの鎌田祐哉氏、2軍で手応えも1軍ではめった打ち
2012年に台湾プロ野球の統一ライオンズで最多勝など3つのタイトルを獲得した鎌田祐哉氏は、ヤクルト入団直後は3年目に両リーグ1位タイの2度の完封勝利を挙げるなど先発ローテーション投手として活躍。しかし4年目以降は伸び悩み、成績は下降線をたどった。7年目は右肩腱板不全断裂の重傷を負いながら保存療法を選択して復帰。防御率1点台と復活の兆しを見せた。8年目の2008年は2軍で抑えとして奮闘。だが、手応えを抱きつつ挑んだ1軍では打ち込まれたという。
開幕1軍で迎えた2008年は3戦目となった3月30日の巨人戦(神宮)で10-2の9回に5番手で登板。1安打されたものの無失点で試合を締めくくった。開幕から4試合連続無失点救援と上々のスタート。だが4月13日の巨人戦(東京ドーム)でシーズン初失点を喫すると暗転する。同16日の横浜戦(神宮)は2回3失点、同18日の阪神戦(同)は2回2失点と3試合連続で失点してしまい、2軍落ちとなった。
この年、2軍では主に抑えとして33試合に登板して2勝2敗10セーブ、防御率2.87を記録している。「2軍では無双状態の時もありましたし、結構いい状態だったと思います。投球フォームについても『これだ』という何かをつかんだ感じもあって、自信を持って1軍に上がったんです。でも、かなり打ち込まれましたね」。5月16日の阪神戦(甲子園)で1軍復帰して3回1失点。同22日の西武戦(西武ドーム)は2回無失点と踏ん張ったが、同25日の楽天戦(神宮)は2-2の4回途中から2番手で登板して2回2/3を投げて2失点で敗戦投手となった。
その後、中継ぎで2試合無失点に抑えたものの、6月3日のソフトバンク戦(ヤフードーム)は2番手で登板し、打者4人に対して1死も奪えず3安打1四球で3失点。続く同9日のロッテ戦(神宮)でも1/3回で1失点し、再び2軍降格を告げられた。「悩んで自分なりに形を見つけて自信を持って挑んだ1軍だったので、かなり打ちのめされて『もう無理だな』って思いました。『もう野球を続けていけないな』って思った時期ですね」。
ベテランの域に差し掛かった大卒8年目。首脳陣から「2軍に行って、調整してこい」と指示を受けても、何から手をつけていいのか分からない状態だったという。「2軍だとベテランの方ですし『自分で好きに調整していいよ』って気を使ってもらったりしたんですが、3、4日ぐらいは何もできずにボーッとしていたと思います。『俺、何をしたらいいんだろう?』みたいな感じでした」。結局、浮上のきっかけをつかめないまま、1軍では16試合で0勝2敗1ホールド、防御率6.86に終わった。

9年目に横手投げ転向…緊急昇格で駆けつけた甲子園
背水の思いで迎えた2009年、不振脱却へ思い切った手を打つ。「サイドスローにしたんですよ。はたから見たらそんなに腕が下がっているようには見えなかったかもしれないですが、僕の中では結構、下げたんです」。上手から150キロ近くの直球を投げ込んでいた本格派右腕が、横手投げに挑戦。実際はスリークオーター気味だったようだが「変化球が曲がるようになって、2軍で結果が出るようになったんです」と自信を取り戻しつつあった。
そして9月2日、思いもよらぬ出来事が起こる。2軍施設がある埼玉県戸田市で午前の練習を終え、登板予定がなかったため寮の風呂に入っていたタイミングでマネジャーから声がかかった。「鎌田、1軍に上がるから今から甲子園に行ってくれ」。荷物をまとめて、遠征用の大きなバッグを持ち、すぐに帰宅して新幹線に飛び乗った。「甲子園に着いたのは7回裏ぐらい。それで8回裏に投げました」。慌ててユニホームに着替え、8回に“駆けつけ登板”。ドタバタながら阪神打線を1回1安打1奪三振無失点に抑えた。
帰京した移動試合の同4日の巨人戦(東京ドーム)は3-3の延長11回に登板。「巨人の木村拓也さん(故人)が(10年ぶりに)捕手をやった試合です。よく覚えています」。1回を無安打3奪三振1四球無失点だった。ここまでは良かったのだが、連投となった同5日の同カードで「守りに入った投球をしてしまったというか……」と1回3失点。同9日の広島戦(神宮)は2回パーフェクトに封じたが、再び2軍調整を通達された。
「腐らずに見ていただいてありがたいなという気持ちはメチャクチャあります。ただ終始、僕は信頼がなかった投手だったなというのは感じていました。いい時もあったんですが継続できなかった。実力不足です」
この年、1軍では9試合の登板にとどまり0勝1敗、防御率5.25。もう後がないのは自覚していた。翌2010年は開幕2軍スタート。そして6月に渡辺恒樹投手との交換トレードで楽天移籍となった。秋田出身右腕にとって、再出発が東北の球団だったのは「前向きに捉えられた」という。再起を誓って初めてのパ・リーグに挑んだ。
(尾辻剛 / Go Otsuji)