“親バレ”警戒「顔はやめとけ」 不祥事で消えた初登板…暴力の連続に「警察来ないかな」

南海、広島などでプレーした加藤伸一氏【写真:山口真司】
南海、広島などでプレーした加藤伸一氏【写真:山口真司】

加藤伸一氏は1981年倉吉北に進学、春の選抜4強入りで夏も期待されたが…

 南海・ダイエーなどで活躍した右腕・加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)は甲子園出場を夢見て、鳥取の野球強豪校・私立倉吉北に進学したが、待ち受けていたのは地獄の日々だった。今では考えられない暴力行為の嵐。100人入った新入部員がどんどん減っていくなか、実力で1981年の1年夏には背番号15をつかみ、初戦先発に決まっていたが、それも不祥事発覚による出場辞退で幻になった。さらには1年秋も……。やりきれない状況が続いた。

 倉吉北は加藤氏が入学前の1980年春、夏、1981年春に3季連続甲子園出場を果たした。1981年春の選抜ではPL学園に敗れたが、準決勝まで進出。「それで僕らの入学式がちょっと遅れたんだけど、そこまでは思うように、というか……」。当然、夏は春以上の成績を目指すところだろう。それこそ全国制覇も視野に入れていたはずだ。だが、甲子園どころか、鳥取大会でも戦うことなく、その年の夏は終わった。野球部内の暴力が報じられたからだった。

 実際、理不尽なしごきはすさまじかったという。「当時はウチの学校だけではなかったでしょうけど、荒れていました。先輩が後輩を殴っても周りは見て見ぬふり。警察が来てくれないかなぁ、誰かリークしてくれないかなぁって毎日思っていましたよ。練習後の集合ってやつがありますけど、僕は(自宅からの)通いだったから“顔はやめとけよ”ってなっていた。親にバレるから顔だけは殴るな、ケツバットとかにしとけってことです」。

 この頃の倉吉北の野球部はほとんどが兵庫、大阪など他県からの“留学組”の寮生で、自宅から通う地元組は加藤氏の代では5人いたが、2人辞めて3人。現実に多くの1年生が辞めていったという。それが報じられた。辞めた1年生サイドからと思われるリークがあったからだが、連帯責任で野球部員は、野球も奪われることになった。誰かに通報してほしいと願っていたことが現実となったのに、またつらい現実を突きつけられた形だった。

“山陰の暴れん坊”と呼ばれた倉吉北ナインはその多くが剃り込み、眉毛なしなど、甲子園でも独特なムードを漂わせていた。「監督から聞いた話ですけど、大阪が地元の選手が多いし、“甲子園で明日試合だからお前らさっぱりしてこい”と言って“わかりました、全員五厘(刈り)にしてきます”。そうしたら剃り入れて、眉毛全部剃って、になったそうです」。ずっと、それだけだったら、まだ話題だけで済んだのだが……。

1年夏に初戦先発予定も出場辞退、2年春は高野連からストップ

 加藤氏は入学後の厳しい状況にも耐え、過酷な練習も乗り切り、甲子園常連校の野球レベルの高い環境で1年生でひとりだけ背番号15をつかみ、1年夏の鳥取大会1回戦の米子高専戦で先発予定だった。「鳥取大会の開会式に出て、(前年優勝だから)優勝旗返還して帰ったら、監督に明日(の1回戦に)先発で行くぞって言われました。そしたら次の日、バスに乗って球場に行く予定がちょっと集まれと言われて、朝刊にどうのこうの、自粛する、大会は辞退するって」。

 いきなり無念の事態となったが、それでも加藤氏は1年生。まだ2年間チャンスは残っている。倉吉北は2か月の対外試合自粛期間を経て、新チームで秋の鳥取大会に出場し、優勝した。加藤氏は2番手投手としてベンチ入り。初戦の鳥取工戦にリリーフ登板して公式戦デビューも果たした。次は翌1982年春の選抜出場をかけての中国大会だ。だが、そこには出場できなかった。

「夏の時は学校側から辞退、自粛したけど、その後、いろいろなことが判明し、調べたら本当だったというか、えげつないことがあったということで、高野連からストップがかかったんです」と加藤氏はむなしそうに話す。中国大会は出場辞退。翌年の6月30日まで対外試合禁止の処分だった。

 この時点で加藤氏に残された甲子園チャンスは2年夏と3年春、夏の3度。まだ戦える。トレーニングなど怠ることなく調整を続けた。「自宅通いは僕とキャッチャーとショートの3人。自転車で片道1時間10分ぐらいかけて通いました。雨の日も雪が積もっても自転車でね。寒いですよ。冬は。かなり着込んでいましたけどね」。一冬を越えて体力もついた。

 1982年7月、練習試合が解禁となり、数試合を経て、加藤氏は背番号10で2年夏の鳥取大会に臨んだ。倉吉工との2回戦に先発し、6回無失点の好投で勝利に貢献した。だが、準々決勝で鳥取城北に3-8で敗れて、終わった。その試合は2番手で投げたが、白星をつかめなかった。そして、これが、まさかの高校時代のラスト公式戦マウンドに……。「さすがに僕も大ショックでした」。この後、さらなる最悪事態で一気に3年春と夏まで奪われることになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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