降格で即クビ、続々消える同僚「人生どうなる」 開幕で残り2人も…異国で掴んだ成功

ヤクルト、楽天などでプレーした鎌田祐哉氏【写真:尾辻剛】
ヤクルト、楽天などでプレーした鎌田祐哉氏【写真:尾辻剛】

元ヤクルトの鎌田祐哉氏、台湾・統一で開幕2戦目先発

 ドラフト逆指名で入団したヤクルトで9年間、トレードで加入した楽天で2年間プレーした鎌田祐哉氏は2011年オフ、台湾プロ野球の統一ライオンズの入団テストを受けて合格。2012年は異国の地で奮闘した。自身プロ3球団目となる統一では、開幕2戦目を任されるなど先発ローテーションの中心として回り、台湾プロ野球界の日本人記録を更新する開幕11連勝をマーク。一躍、鎌田フィーバーが巻き起こった。

 現在は契約期間が長く、不調の際は2軍での調整もあるようだが、当時の契約は2か月更新で、外国人選手は1軍から2軍降格となった場合は解雇になる状況。結果が出なければ、すぐにチームを去っていった。そんな中、外国人選手が4人いたこともあり、中島輝士監督(日本ハム-近鉄)と紀藤真琴投手コーチ(広島-中日-楽天)から、まずは2軍でスタートし、台湾の野球に慣れてから1軍に上がるプランを示されたという。

「慣れないまま1軍で投げて、打たれてすぐ解雇だともったいないからと、紀藤コーチに声をかけてもらいました。でも、オープン戦で他の外国人が怪我をして帰国したり、打たれて解雇になったりと、どんどん入れ替わる状況でした。開幕前は僕とオリックスで2009年から2年間プレーしたジョン・レスターだけになりました」。レスターが開幕投手。鎌田氏は開幕2戦目の先発が決まった。

「投球練習が終わった後、プレーボール直前にスコアボードを見つめて『俺の人生ってどうなるのかな。さぁ、やるか!』って。自然と笑みが出たのを覚えています。『日本で11年間プロ野球の世界で生きてきて、今の自分に何が残っているんだろう。せめて自分が悩み、考えて野球をしてきたことが間違いではなかったと思いたい』。そう考えて腹をくくった瞬間ですね」

 統一は中島監督が指揮を執り、紀藤コーチも在籍。日本語が通じる環境ではあったが、野球と同時に中国語の習得にも必死に取り組んだ。「チームメートと少し話せるようになると、どの打者をどう抑えたかなどの情報交換もできますし、何よりチームメートから話しかけてくれたり、『一緒に食事に行こう』と誘ってくれたり、生活が楽しく感じられて野球にも集中できました。シーズン終盤には仲がいい選手たち何人かで居酒屋に行ったりして、何とか中国語で話して笑い合えたりできました」。

 外国人選手である鎌田氏とチームメートの距離がグッと縮まったのは間違いない。「選手の信頼も得られて、僕が困ってる時は助けてくれたり、かばってくれたこともありました。だから異国の台湾で、頑張れたんだと思います」。初登板を白星で飾ると、攻守に渡って味方の援護も受け、投げれば常に勝利する無双状態。連勝街道を突き進んだ。

日本人記録を更新、開幕11連勝…球宴ファン投票1位

 野中徹博(阪急、オリックス)が持っていた開幕9連勝の日本人記録を更新する開幕11連勝をマーク(中継ぎでの1勝を含む)。開幕から11試合で10勝を挙げる快進撃は台湾球界の新記録でもあった。本拠地がある台南の町を歩くとファンから「リエンティエン(鎌田)」と気軽に声をかけられ、写真撮影をせがまれることもしばしば。中国語を覚えたことで交流も増え、人気もみるみるうちに上昇していった。

 くすぶり続けたNPB時代と状況が一転。テレビや雑誌の取材を受けるなど知名度がアップし、空前の「鎌田ブーム」が起きた。日本人選手初となるオールスターのファン投票1位での選出の栄誉もついてきたのである。「11連勝の記録よりも嬉しかった。ファン投票1位ということで、台湾のファンに受け入れてもらえたと実感できたことが幸せでした」。

 日本時代は首脳陣の目を気にしすぎていた面も、異国の環境が精神面に変化を及ぼした。「監督と投手コーチが日本人でしたが、僕は外国人選手としてプレーする状況。異国の地ですし、日本人同士、信頼されてると感じたんです。開幕から何試合か勝てたことが大きかったと思いますが、チームメートからも信頼されていると感じて、自然と不安から自信に変わっていきました。だから凄く頑張れたというか、力を出せた気がします」。日本で最速149キロだった直球は自己最速を更新する151キロを計測。まさに充実一途である。

 報酬も増えていった。月給に出来高がつく契約で「2か月更新なので、2か月ごとに球団事務所に交渉に行きました」という。「他の外国人選手より結果を出せていたので『同じくらいに上げてくれ』と。最後の2か月は他の外国人選手と同じくらいにはなったと思います」。

 人気も報酬も右肩上がりの右腕が大きな原動力となって統一の前期リーグ優勝に貢献。後期はやや失速したものの、シーズンの優勝をかけた「台湾シリーズ」にも登板した。「日本では何も残せなかったですけど、台湾で活躍できたことは、いい思い出です」。13年前に起きた空前のブーム。異国の地に「鎌田」の名を刻んだ。

(尾辻剛 / Go Otsuji)

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