投手3冠もまさかの“戦力外”「どうして…」 見向きもされぬ異国での奮闘「もう終わろう」

元ヤクルトの鎌田祐哉氏、最多勝など獲得も契約更新されず
逆指名で入団したヤクルトと、トレードで加入した楽天でNPB通算11年間プレーした鎌田祐哉氏は2012年、台湾プロ野球の統一ライオンズでプレーした。開幕2戦目を任されるなど先発ローテーションの中心として回り、台湾プロ野球界の日本人記録を更新する開幕11連勝をマーク。オールスターにも日本人選手初となるファン投票で選出された。空前の鎌田ブームを巻き起こし、チームの前期優勝にも貢献。しかしオフに契約が更新されないまさかの事態が待っていた。
2012年のシーズンは後半にやや失速したものの、最終的には26試合に登板して16勝7敗、防御率3.14。最多勝のタイトルを獲得し、1イニング当たりの与四球と被安打を示すWHIP1.14もトップの数字だった。ベストナインとゴールデン・グラブ賞にも選出され“投手3冠”の栄誉。「最後に台湾で活躍できて、いい経験になりました」。野球人生の中で非常に大きな1年だったのは言うまでもない。
「台湾という異国の地に住み、文化に接し、言葉を覚えて、仲間ができた。もちろん、野球で成績が出せたからというのはありますが、その経験が僕の人生を豊かにしてくれていて、今の土台となっていることは間違いないです。ヤクルト時代や楽天時代もいい経験でしたが、それらを大きく上回る経験でした」。充実のシーズンを終えた右腕は当然、翌年も台湾でプレーするつもりでいたが、11月に統一から「来年は契約しない」と告げられる。予想外の展開だった。
外国人選手としてチームに貢献できた自負はある。「どうしてですか?」。当然の疑問だった。球団側の答えは「来年はアメリカ人を中心に獲りたいから」だったという。登録枠の関係や球団側の戦略、方針もある。「『そうなんだぁ……』って思いましたね。ショックというよりは『そういう人生なのかぁ』って感じでした」。
その後は古巣のヤクルトなど国内球団に接触したという。「台湾で実績は残したものの、誰も台湾での活躍なんて知らなかった感じでした。『育成選手なら』っていう話もいただきましたが、34歳でしたし、潔く諦めようと思いました」と引退を決断。「最後に台湾で活躍できたし、いい思い出として、もう終わろうと思いました」と当時の心境を振り返った。
まさかの再契約オファーも断り…退団翌年、引退セレモニー
ところが、年が明けて統一から「もう1回、契約したい」と連絡が届く。まだ、就職は決まっていない状況。「その時はもうトレーニングはしていないですし、ボールも投げていない。さらに2か月契約という話だったので、そこからもう一度、体と気持ちを作るのは無理だと思い、お断りしました」。11月の段階で契約延長の打診があれば結論は違っていたが、もう心と体がついていかなかった。
たった1年で終わっても、台湾に挑戦した意義は大きい。「日本でも野球をずっと頑張ってきましたが、楽天を解雇された後に感じたのが『自分には何も残ってないんだな』ってことでした。野球しかやってきていないわけで、年齢を重ねてからの就職は難しく、ハローワークに行っても『誰かに紹介してもらってはどうですか?』と言われました。『俺のNPBでの11年って何だったんだろう』って。でも台湾で結果を残せて、その11年を肯定できるようになりました」。
NPB在籍11年間で通算14勝だった右腕が、たった1年でそれを上回る16勝。年間171回1/3を投げたのも自己最多だった。「開幕2戦目のあの日、プレーボールの瞬間に『日本での11年間が間違いではなかったと自分に証明したい』と強く思ったのは忘れません。自分の中で、本当にやり切ったという気持ちはありました」。
昨年11月に開催されたプレミア12は優勝したチャイニーズ・タイペイに自然と目がいったという。侍ジャパンとの決勝も「日本代表の選手たちは名前は知っていますけど、台湾チームは監督やコーチが元同僚だったり、対戦したことがある選手で、みんな知っているんです。だから、そっちに目がいくというか、思い入れはありますよね」と日本と同等以上に愛着があることを明かした。
引退を惜しむ台湾ファンの声は根強かったそうだ。退団翌年の2013年7月、ファンの声を受けた統一から台南に招待され、外国人選手では初めてとなる引退セレモニーが行われた。「ありがたかったですね。自分で言うのも何ですけど、『愛されていたんだな』って思えて、本当に台湾に行って良かったと心から思いました。台湾、大好きです」。2020年の新型コロナの流行以降は行けていないそうだが、また訪れたい気持ちは常に抱いている。多くの友人が待っているのである。
(尾辻剛 / Go Otsuji)