人的補償で巨人退団→復活の先に待っていた“代償” 悲鳴を上げた肘、失った居場所

元ヤクルトの藤井秀悟氏…巨人で影響を受けた人物
NPBで4球団を渡り歩いた藤井秀悟氏は「(移籍した)順番が良かった」と振り返る。ヤクルトで投手の土台を作り、日本ハムではダルビッシュ有投手の影響でトレーニングが進化し、野球への取り組み方も変わった。日本ハムで2年過ごし、事実上の戦力外ながら球団の勧めでFA権を行使し、巨人へ。3年ぶりのセ・リーグ復帰だった。
移籍1年目の2010年は23試合に登板し122イニングで7勝3敗、防御率3.76。2年目は1試合のみだったが、バッテリーを組んだ阿部慎之助捕手が支えになった。阿部は学年で1年下。ヤクルト時代には何度も対戦しサヨナラ弾も浴びたが、配球の話を何度もした。藤井氏の長所を掴んでいた。
「チェンジアップと外の真っすぐのコンビネーションが嫌だったみたいです。チェンジアップを生かすために真っすぐをどう使うか、逆に真っすぐを速く見せるためにチェンジアップをどう使うか、と話していました」
阿部は打者としてだけでなく捕手としての野球理論も一級品だった。「状況を先読みできるんです。たまに慎之助がスタメンじゃないときがあって、試合を見ながら話をしましたが、驚きました。食事に行ったときでも野球の話をしてくれて、すごく勉強になりましたね」と感謝する。
巨人2年目は1試合のみの登板で終わり、村田修一がFAで加入したきたことによる人的補償でDeNAへ移った。ここでも「順番が良かった」と実感。DeNAでは即戦力として期待され、2012年に7勝、2013年に6勝を挙げ、防御率も3点台で安定した。
移籍後も阿部と再び対戦し「打席で打者がマークする球があって、そのマークをいかに外すか。どこに、いつ投げるかが大事。慎之助と対戦するときはそこに気をつけて投げていた」と語る。だまし合いの駆け引きは、互いにベテランの域に達していたからこそだ。「慎之助の存在は長くプレーできた大きな理由の一つです」と振り返る。
人的補償で移籍…限界を迎えた肘
移籍1年目の2012年はDeNAが親会社になった初年度。「球団もいろいろ試している中でチャンスをもらえた」。2013年は11年ぶりの開幕投手も務めた。「長いイニングを投げられることを証明したい」という思いから4月に11年ぶりの完投勝利を記録。自身が持っていたユニークな記録「連続先発無完投」を107で止めた。さらに7月には11年ぶりの完封勝利も達成した。
しかし、責任感は代償も呼んだ。開幕からローテーションを守る中で4度目となる肘痛を発症した。「チームのために無理をして頑張ってしまった。あそこで自分からファームに行っていれば、もう少し肘はもったと思います」。登板するたびに治療し、次の試合に間に合わせてきたが、限界だった。翌年1軍登板ゼロに終わり、トライアウトも声はかからず、引退を決めた。「野球を続ける場所がなかったから辞めるしかなかった」。
こうして15年間の現役生活を終えた藤井氏は、移籍のたびに環境に適応し持ち味を磨いてきた。しぶとく結果を残し続けた“野球小僧”は、通算83勝という数字以上に、ファンの記憶に残る選手だった。
(伊村弘真 / Hiromasa Imura)