ベンチで首脳陣に「肘が終わりました」 初回で交代直訴…元ドラ1が1球目で聞こえた“音”

南海、広島などでプレーした加藤伸一氏【写真:山口真司】
南海、広島などでプレーした加藤伸一氏【写真:山口真司】

加藤伸一氏はプロ3年目、4月に右肘痛を発症して離脱

 パチッと音がした……。鳥取・倉吉北からドラフト1位で南海入りした加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)はプロ1年目に5勝、2年目に9勝と成績をアップさせた。だが、3年目の1986年は22登板、3勝10敗2セーブ、防御率4.68とつまずいた。4月8日の阪急戦(大阪)に先発した際に右肘を痛めたのが、大きく響いた。実はその年、開幕前には不吉な出来事があったという。

 3年目の1986年、加藤氏は4月4日の西武との開幕戦(西武)に2番手で登板し、1回無失点に切り抜けた。前年後半は右肘違和感に苦しんだ時期もあったが、それも乗り越えて、新しいシーズンのスタートだ。だが、試練はすぐにやってきた。2試合目の登板は4月8日の阪急戦での先発。開幕リリーフからは中3日でのマウンドだったが、いきなり阪急・福本豊外野手に先頭打者アーチを浴びた。

「確か、福本さんへの1球目だったかな、投げた瞬間にパチッって肘をやったんです。これは無理だなと手を上げようかと思ったんですよ、ベンチに。でもちょっとかっこ悪いから1回だけでも投げようと思って、全部真っ直ぐでごまかして……。(球速は)120キロくらいしか出ていなかったんじゃないですかねぇ。で、ホームランです」。その回、さらに1点を追加され、結局1回2失点で降板した。

「もう痛くて、痛くて、これじゃあ届かないよってくらいの全部真っ直ぐですよ。今だったらピッチングコーチが走ってきたでしょうけど、あの時は……。1回が終わって、ベンチで『代えてください』と言いました。『もう肘が終わりました』ってね」。加藤氏のことを誰よりも熟知していた恩師の河村英文投手コーチは前年限りで退任しており、それもその年の調整などに影響していたのだろうか。高卒1年目からフル回転してきたツケが一気に来た形にもなった。

開幕前には愛車にも“アクシデント”「エンジンルームに猫が」

 当時を思い出しながら、加藤氏はこんな話も明かした。「その年の開幕前、(右肘を痛めた)その試合の1週間前、(愛車の)ソアラを寮の前に停めて、一晩置いていたんですよ。そしたらエアコンが何か臭くなって……。近くのガソリンスタンドに持っていって、オイル交換をしてもらって『何か臭いんでちょっと見てもらえますか』って頼んだら『加藤さん、猫がエンジンルームに入ってファンのところに肘を引っ掛けて死んでいる』って」。

 スタンド店員に頭を下げて掃除をしてもらい、その後、加藤氏は近くの神社に「供養に行った」という。「その帰りに、今度は当たり屋にやられたんです。フルのヘルメットで単車。5枚くらい着込んでいるヤツが僕の車にぶつかってきたんですよ。示談にしましたけど、病院でレントゲンを撮る時に見たら、傷だらけ。これは相当やっているなぁって思いましたね。で、そんなことがあった後に肘を痛めたんで、余計気持ち悪くて……」。

 4月8日の阪急戦での1回降板後、加藤氏は2軍で右肘の治療、リハビリ調整に励んだ。「もう投げられなかったですからね」。それでも6月には1軍に戻った。復帰戦の6月5日のロッテ戦(大阪)では9回途中から4番手で登板し、セーブをマーク。6月中旬からは先発で投げた。しかし、好投しても打線の援護がないなど、どうにも流れが悪かった。黒星ばかりが積み重なり、3勝10敗2セーブで終わった。南海は2年連続で最下位に沈んだ。

「4月に痛めたのも、言うたら(プロ1、2年目に)投げすぎ。この年も(6月に復帰後に)無理して投げたんじゃないかと思います。普通ならもうちょっと(調整に)時間をかけたかもしれないけど、まぁ(当時の南海は)ピッチャーがいないチームでしたからねぇ……」。実際、3年目に無理したことが、4年目(1987年)に影響を及ぼした。状態が上がらず「確か、キャンプもまともにできていなかったと思います」。

4年目も状態が上がらず、6月末まで2軍暮らしと出遅れた

 4年目は開幕から2軍暮らしが続き、1軍初登板は7月にまでずれこんだ。シーズン初勝利は7月8日のロッテ戦(平和台)。4-4の8回1死から4番手で登板し、1回2/3を無失点に抑え、南海が9回にサヨナラ勝ちして白星をつかんだ。これは5月23日に新潟・柏崎市佐藤池野球場で8回1死日没サスペンデッドになった分の再開試合で、5月の時は2軍の加藤氏が勝ち投手になる珍しいケースにもなった。

「その日はダブルヘッダー。そのまま次の試合も先発してもよかったんですけどね」と懐かしそうに話したが、4年目はやはり出遅れが響いて、成績も14登板、4勝5敗、防御率3.23にとどまった。チームは4位だった。「3年目、4年目というのは何か痛かったなぁという2年間だった。これで終わっていくのかなぁって感じだった」。そこからまた加藤氏は立て直していく。プロ5年目の1988年、南海からダイエーへの球団譲渡という衝撃事態に直面しながら……。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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