ドラ1が直面した“最低”の待遇「これより下はない」 球団身売りも納得…自ら洗濯、僅かな食費

加藤伸一氏はプロ5年目から合宿所を出て、一人暮らしをスタート
南海からダイエーへ。大阪から福岡へ。元ホークス右腕の加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)はプロ5年目の1988年に“球団身売り”を経験した。その年のシーズン半ばからまことしやかにささやかれ、9月には正式に発表された。「後援会もできたし、(大阪)ミナミの街も……。ある意味、僕の青春時代でしたし、寂しさもありました」という。「まぁ、衝撃半分、期待半分でしたけどね」と当時の心境などを語った。
プロ5年目から加藤氏は大阪・堺市中百舌鳥の「秀鷹寮」を出て、一人暮らしを始めた。「(大阪の)長居に引っ越しました。まぁ、野球をやりながらですから、カーテンを買ったり、いろいろしていたら(すべて整うまでに)1年くらいかかりますよ」と言いながらも、新しい環境下で復活を果たした。3、4年目は右肘痛との闘いだったが、この年はそれもなし。4月は勝ち星こそ挙げられなかったものの先発とロングリリーフをこなした。
5月12日の阪急戦(西宮)で2失点完投勝利を挙げてからは先発ローテーションに復帰し、投球リズムも取り戻した。シーズン前半で6勝をマークし、2年目の1985年以来、2度目の球宴出場も果たした。そんな中、夏には南海球団に大手スーパーのダイエーへの身売り話が報じられた。この頃の南海はBクラスが“指定席”。加藤氏が入団してからも5位、6位、6位、4位と低迷。毎年のようにこの手の噂話は出ていたものの、その年はこれまでのとは違っていた。
1988年9月、南海からダイエーへの球団譲渡が決まった
9月中旬には球団譲渡が発表された。「ダイエーと聞いて神戸と思ったんです。そしたら福岡。九州には遠いイメージがあって嫌だなって最初思いましたよ。試合で行ったことはあったけど、土地勘があるわけじゃないしね。関西なら鳥取の実家からも車で3時間くらいで行けたし……。寂しさはありました。(大阪)難波では僕もよくお世話になったし、後援会もできたし、みなさんにかわいがっていただいたんでね」。とはいえ「衝撃半分、期待半分でした」とも言う。
「南海が12球団のなかでも待遇の悪いチームっていうのは、やっぱり身にしみてわかっていたし、これより下はないんじゃないかって思ったんです。南海では食堂でも500円の食券がでるだけで、それを超えた分は自腹。ユニホームの上下以外、クリーニング代も給料引きです。だからみんな自分で洗濯していましたよ。ピッチャーなんかアンダーシャツを全部出していたら、月に6万も7万も引かれます。投げれば投げるほど引かれる数も多くなりますからね」
大阪での一人暮らしの時もナイター後の洗濯が日課だったそうだ。「全部持って帰って洗濯機に入れて、夜のスポーツニュースを見たらベランダに干して……。次の日がデーゲームだったら、乾くかなぁなんて思いながらね」。ほかにも他球団よりも劣っている環境を感じる部分は多かったという。ダイエーに変われば、もろもろ、いろんなことが少しでも改善されるのではないか。自然とそんな期待も抱いたわけだ。
「人気はあるけど、球場には人が少なかった」忘れぬラストゲーム
この年の南海は5位でフィニッシュ。加藤氏は3年ぶりに規定投球回に到達し、27登板、8勝10敗3セーブの成績を残したが、そのうち7勝目と8勝目はダイエーへの譲渡が発表された後にマークしたものだった。「それは覚えていないですけど、給料も上がるだろうし、頑張ろうみたいに思ったんじゃないのかな」と笑ったが、その2勝の舞台はいずれも本拠地・大阪球場であり、大阪のファンに感謝の思いを込めての好投だったに違いない。
「南海を応援する人ってたくさんいたと思います。それは感じていました。でもあの頃は弱かったんでねぇ……。人気はあるけど、球場には人が少なかった。勝ちだしたら来るって感じでね」と加藤氏はしんみりと話した。10月15日の近鉄戦、大阪球場でのラストゲームには満員3万2000人の大観衆が詰めかけた。試合後のセレモニーで杉浦忠監督が「ホークスは不滅です。行って参ります」などと挨拶したのは語り継がれている。
加藤氏にとっては5年間の南海生活だったが、思い出は尽きない。南海・杉浦正胤スカウトに誠意を感じて、ホークス入り。恩師の河村英文投手コーチとの出会いもあった。鳥取から大阪に出て、プロ野球選手として鍛えられた……。「寮から出て引っ越して、いろいろ揃えてようやくって時にまた引っ越し。寮から出なきゃよかったな、みたいな感じにもなりましたけどね」。いざ福岡へ。加藤氏のプロ野球人生はここからまた激動となる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)