体調不良で見切り「王さんの逆鱗に触れた」 過去を知らない首脳陣…予期した戦力外

ダイエー、広島などでプレーした加藤伸一氏【写真:山口真司】
ダイエー、広島などでプレーした加藤伸一氏【写真:山口真司】

加藤伸一氏は王ダイエー1年目、豪州キャンプで体調を崩して出遅れた

 悪い流れにハマってしまった。1983年南海ドラフト1位右腕の加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)はプロ12年目の1995年、1軍出場なしに終わり、10月に戦力外通告を受けた。前年(1994年)に右肩故障からの復活を果たしたが、2月の豪州キャンプ初日に体調を崩して出遅れたのが影響した。開幕も2軍で迎えて、結局1軍から声がかからなかった。「肩は痛くなくなったんですけどね」。シーズン途中から覚悟していたという。

 1995年からダイエーは王貞治監督体制になった。世界のホームラン王の登場に大いに盛り上がる中、2月のキャンプは豪州ゴールドコースト・パームメドウズ球場で行われた。加藤氏はその初日にダウン。「これは僕の不注意、僕が悪いんですけど、風邪をひいて2月1日に出れなかったんです」。投手陣はキャンプ前から豪州先乗りで調整しており「王さんの逆鱗に触れた。『何で早くから行っていたヤツが……』って……」。

 この躓きが後々にまで影響を及ぼした。「僕は(肩関節が不安定な)ルーズショルダー。風邪をひいて休んだことで、肩がまた緩んでしまって、結局(豪州では)キャンプらしい、キャンプができなかったんです。で(日本に)帰ったら(高知2次キャンプは)2軍。そこからはずっと2軍でした」。当時は支配下登録70人を開幕前に1軍40人、2軍30人に振り分ける制度があった(1992年~1996年まで)。ベンチ入り28人も40人枠に入った選手にだけチャンスがあるが、加藤氏はその40人枠からも漏れた。

当時あった1軍の40人枠から外れ、そのまま2軍生活

 入れ替えが認められるのは、全治2か月以上の怪我人が出たケースを除き、6月はじめと7月の球宴前の2回だけで、最大5人まで。シーズン終盤の9月から入れ替え自由だが、2軍30人枠の選手はまず球宴前までの40人枠入りを目指して、アピールする。加藤氏にとって40人枠に入れなかったことは屈辱だったが、それでも諦めることなく2軍の試合で結果を出すことに集中した。「もう肩の痛みもなくてね、2軍でちょこちょこ投げていたと思いますよ」。

 しかし、1軍から声はかからなかった。40人枠への入れ替えの話もなかった。「あとあと聞くと(首脳陣が)『加藤の肩は手術したけど、もう無理。戦力にならない』とジャッジして王さんに報告していたそうです。これは想像ですけど、僕へのイメージがあったと思う。投げても(回復までに)10日以上かかるし、そんな肩では、ということでね。王さんの1年目ですし、首脳陣も(多くが)それまでの僕をご存じないじゃないですか……」。

 加藤氏は高卒1年目(1984年)から1軍で活躍したが、3年目(1986年)に右肘痛を発症。そこから立ち直り、5年目(1988年)は8勝、福岡移転の“ダイエー元年”の1989年は12勝をマークしてエースとして活躍した、しかし、7年目(1990年)に右肩痛に襲われ、1年を棒に振った。1991年に復活したが、1992年に悪化し、手術。長いリハビリを経て1994年にカムバックしたばかりだったが、そんな過去を熟知しない新体制の首脳陣からは早々に見切られた形だった。

10月に戦力外通告「覚悟はしていたけど、やっぱりショックでした」

「7月に(40人枠に)上がれなかったら、クビだと思いました」。当時、加藤氏は30歳。「シーズン中の肩の状態はこの年が一番よかったと思う」と振り返ったが、1軍へのチャンスがなければ、どうしようもない。自分自身も、まだまだ投げられる、と思いながらも、妻、子どもとの生活もかかっている。大阪の知人からはアパレル関係の仕事を打診され、真剣に検討したという。「ちょっと興味もありましたしね」。

 10月になって球団から「来年の契約はしない」との通告を受けた。「(博多)駅前の(ホテル)セントラーザに呼ばれてね。(球団フロントからは)『今後どうしたいですか』と聞かれたので『いや、まだ答えは出せませんよ。野球をやるんだったら自分で探します』と言いました。腹が立って、意地を張ってね……。覚悟はしていたんですが、いざそうなると、やっぱりショックでした」。アパレル業界への転身を考えながらも野球を続けたい気持ちも捨てきれないでいた。

「でも、初めてのことだし、(他球団への)売り込み方もわからないし、まだ30歳で人脈もある方じゃなかったのでね」。そんな時にホークスの先輩で、カープに所属していた井上祐二投手から連絡があった。「(広島監督の)三村(敏之)さんが加藤に興味を持っているよ」。新天地に導く運命の電話だった。南海ホークスと相思相愛の関係になり、1983年ドラフト1位で入団した加藤氏だが、今度はホークスを見返したいとの思いがパワーになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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