シャワー中なのに…突如現れた名将 まさかの交代撤回、続投の先に待っていた“地獄”

オリックス時代の加藤伸一氏【写真提供:産経新聞社】
オリックス時代の加藤伸一氏【写真提供:産経新聞社】

加藤伸一氏はオリックス移籍1年目、右肩の状態が思わしくなく出遅れた

 南海・ダイエー、広島を経て加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)は1999年からオリックスに移籍したが、新天地でも山あり谷ありだった。ブルーウェーブ1年目は右肩の状態が思わしくなく開幕2軍スタート。1軍昇格は6月で6勝に終わったが、3完封、3無四球完投を含む4完投とインパクトのある活躍を見せた。だが、移籍2年目は3勝6敗。思わず「一生忘れない」と口にするほど、歯がゆい出来事もあったという。

 1998年のオフに広島を自由契約になった加藤氏は、巨人、阪神など7球団から誘われた中、南海時代の恩師・河村英文氏が1軍投手コーチに就任したオリックス入団を選択した。1997年オフの契約更改時に大減俸を了承する代わりに翌年オフの自由契約を約束してもらい、カープでのラストイヤーに8勝6敗、防御率2.99の成績を残した右腕は、新天地でのプロ16年目、1999年シーズンに意気込んだ。

 出足は思うように進まなかった。「ちょっとまた肩が良くなかったんです。(2月の沖縄)宮古島キャンプでは、ブルペンでキャッチャーを座らせて投げることができなかったくらいでした」。広島時代同様に、先発として期待されながら、大きく出遅れた。開幕からも2軍での調整が続いた。ようやく1軍に上がれたのは6月に入ってから。移籍後初登板は6月3日のダイエー戦(神戸)で3-6の9回に3番手で登板して1回1失点だった。

 2登板目もリリーフ。6月6日の日本ハム戦(東京ドーム)に6-2の6回途中から4番手でマウンドに上がり、7回に片岡篤史内野手にソロアーチを浴びたものの、最後まで投げきり、3回1/3、1失点。ダイエー時代の1989年以来、10年ぶりにセーブを記録した。それでも、なかなか、いい流れをつかめない。3登板目からは先発で起用されたが、4試合に投げて0勝3敗。そんな時に“アシスト”してくれたのが恩師の河村投手コーチだ。

南海、オリックスなどでプレーした加藤伸一氏【写真:山口真司】
南海、オリックスなどでプレーした加藤伸一氏【写真:山口真司】

オリックス初勝利は7月9日の近鉄戦 恩師・河村コーチと抱き合って喜んだ

 それまで加藤氏が先発した試合はデーゲームが多く、ローテーション的には次回もその予定だったが、ナイターでの先発に変更となった。「河村さんが『こいつは夜型人間やから、デーゲームは駄目なんや』って(オリックス監督の)仰木(彬)さんに言ってくれたんです。実際、デーゲームは体がしんどいなって思っていたんですよ」。ローテの入れ替えで中4日での先発となったが「河村さんが配慮してくれたし、何とか頑張らないと、って思った」と気を引き締めた。

 それが7月9日の近鉄戦(大阪ドーム)だった。加藤氏は7回2/3を投げて4安打無失点投球で、試合も7-1。ついにオリックスでの初勝利を手に入れた。ゲームセットの瞬間は河村コーチと抱き合って喜んだ。「それもまぁまぁ、演出もありますけどね。英文さんが横にいたし……」とクールに振り返ったが、忘れられないシーンのひとつではあるだろう。きっかけにもなったようで、そこから中6日先発の7月16日のロッテ戦(千葉)では完封で2勝目をマークした。

 1999年の加藤氏は19登板、6勝5敗1セーブ、防御率3.47。序盤の出遅れが響き、勝ち星量産までには至らなかったが、7月30日の近鉄戦(大阪ドーム)と9月16日の近鉄戦(神戸)で無四球完封勝利を挙げるなど、インパクトある好投が目立った。シーズン3完封と3無四球完投はいずれもパ・リーグトップタイ。翌年の移籍2年目に向けて手応えもつかんでいた。だが……。

 プロ17年目、2000年の加藤氏は春先に調子が上がらず、再び出遅れた。この年の1軍初登板は5月5日のロッテ戦(千葉)で先発して3回2/3、2失点で降板。シーズン初勝利は6回1失点投球での6月28日の近鉄戦(大阪ドーム)だった。その後もリズムをつかめず、結局、24登板、3勝6敗、防御率4.98と移籍1年目よりも成績を下げてしまった。そんな中、35歳の右腕が“奮投”したのは8月。4試合に先発して2勝2敗だったが、すべて完投した。

移籍2年目は3勝6敗とまた試練 夏場には屈辱、仰天の登板もあった

 ただし、その月間4完投のうちの1試合、8月8日のロッテ戦(倉敷)に関しては「あれは一生忘れない」と加藤氏は悔しそうにつぶやいた。延長10回、179球を投げて17安打10失点完投で敗戦投手になった試合だ。「連戦で仰木さんは中継ぎ投手を使いたくなかったんでしょうね。それはわかるんですけど、本当は9回で僕(の登板)は終わっていたんですよ」と話す。

 9回表を投げ切った段階で試合は3-5。裏のオリックスの攻撃が残っていた中「河村さんに『ご苦労さん』と言われて『交代ですか』と聞いたら『うん』って。それで僕はロッカーに行ってユニホームを脱いで、クリーニングのビニール袋に入れて、シャワーを浴びていたんです。カーテンを閉めてね。そしたら、それがバーッと開いて、見たら仰木さんと河村さんがいるわけですよ。で、『お前、何、シャワー浴びてるねん』って言うんですよ」。9回裏にオリックスが5-5の同点に追いついていた。

「『ハ? 交代って言われましたけど』と答えたら『そんなの言っていない、行くぞ、延長戦』って。もう慌てて体を拭いて、ビニール袋からユニホームを出してマウンドに行きました。たぶん、仰木さんが投げさせろって言ったんだと思います」。そして投げた結果が最悪だった。いったん気持ちが切れていたこともあるのだろう。ロッテ4番打者のフランク・ボーリック内野手に満塁弾を浴びるなど10回表に5点を失った。

「ボーリックには僕、よく打たれていたんですよ。それであの時は仰木さんがサインを出していたんです。全部変化球。カーブ、カーブ、カーブ、カーブ、カーブ、ホームラン。終わってみれば、それも思い出ですけどね、でも、防御率が跳ね上がる、跳ね上がる。腹が立ったなぁ……」。この年のこれも試練だったが、加藤氏はそこから這い上がる。移籍3年目(2001年)は11勝を挙げて、オフにはFA宣言も……。また新展開を迎える。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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