36歳でFA宣言→MLB球団巻き込む“争奪戦” 古巣の打診を固辞、選んだ同一リーグの移籍

加藤伸一氏は2001年シーズンに背水の覚悟で挑み、4月4勝の好発進
背水の移籍3年目だった。元オリックス右腕の加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)はプロ18年目の2001年シーズンに「これで駄目なら引退」の覚悟で挑んだ。結果は、4月に4勝の好発進、13年ぶりに球宴出場を果たし、12年ぶり2度目の2桁勝利も挙げた。この裏にはオリックスのレジェンド右腕からのアドバイスがあったという。そして、オフには知人からのススメもあってFA宣言して近鉄入り。また目まぐるしく状況は変化した。
オリックス1年目(1999年)が6勝、2年目(2000年)は3勝に終わった加藤氏は仰木彬監督に「ちょっと考えろよ。来年(2001年)は頼むぞ、春から」とハッパをかけられたという。過去2年はいずれも出遅れての開幕2軍スタートで、夏場に調子を上げた。それを踏まえてのことで「そこからまたちょっとまた頑張ったんですよ。秋から冬にかけて……。次の年も駄目だったら引退だなと思いましたしね」。まさに背水の覚悟で調整した。
ここまでに南海・ダイエー、広島、オリックスに在籍。「もう節目、節目でわかるじゃないですか。チームが変わって3年目。どれだけ大事かって。一回、外に出れば、どういう扱いになっちゃうか、くらいはね」。南海時代の恩師でもある河村英文1軍投手コーチは2年契約を終えて2000年限りでオリックスを退団。大看板だったイチロー外野手もポスティングシステム(当時は入札制)によってシアトル・マリナーズに移籍した。そんな中での勝負のシーズンだった。
結果を出した。「冬とかに相当頑張ったおかげで春からいいスタートが切れました」。シーズン初登板の開幕2戦目のダイエー戦(3月25日、福岡ドーム)では敗戦投手になったが、4月1日のロッテ戦(千葉)では3回途中から3番手で投げて、4回2失点で勝利投手。先発に戻って4月7日の近鉄戦(神戸)で2勝目、4月14日のダイエー戦(神戸)で3勝目、4月22日の日本ハム戦(東京ドーム)では1失点完投で4勝目を挙げるなど、仰木監督の期待に応えた。

因縁あるダイエー・王監督の推薦で13年ぶりに球宴出場を果たした
前年(2000年)の2軍調整中に、当時オリックス2軍投手コーチだった佐藤義則氏にアドバイスを受けたことが大きかったという。「肩に負担がかからないスムーズな投球フォームをいろいろ教わったんです。胸は張らない、後ろは小さく、肩に優しく、腕で投げるんじゃなくて体の回転で持っていってからはじめて腕を使う、とか……。佐藤さんの(現役時代の)フォームがそうだったんですけど、やってみたら、ホント(肩が)痛くないんですよ」。
1998年の44歳シーズンまで現役を続け、通算165勝をマークしたオリックス・レジェンド右腕の言葉には全てに重みもあった。「理にかなっていて、やっぱり年をとっても投げられた方は違うな、なるほどと思いましたね」。指導を受けた2000年限りで佐藤氏はオリックスを退団したが、加藤氏はそのフォームでさらに練習を重ね、右肩に不安を抱えることなく、2001年の開幕を迎え、春先から活躍できたわけだ。
前半終了までに8勝を挙げ、南海時代の1988年以来、13年ぶりにオールスターゲームに出場した。全パを指揮するダイエー・王貞治監督の推薦で選出された。1995年の王ダイエー1年目にホークスを戦力外となった加藤氏にとっては、それもまた感慨深いものだったし、登板した第1戦(7月21日)の舞台が福岡ドームだったのも忘れられない。
6回から3番手でマウンドに上がり、2回1安打無失点。7回は巨人・松井秀喜外野手を二ゴロ、ヤクルトのロベルト・ペタジーニ内野手と岩村明憲内野手を三振に仕留めて、出番を終えた。「僕は(関西には)単身で行っていて、家族は福岡にいたし、(実家のある)鳥取から両親も呼んで(福岡ドーム隣接のホテル)シーホークに泊らせてね。本当によかった。親孝行もできたオールスターでした」。
12年ぶりに2桁勝利もマーク オフにはFA権を行使し、近鉄移籍を決めた
シーズン後半も活躍を続け、9月24日の日本ハム戦(東京ドーム)では“ダイエー元年”の1989年以来、12年ぶり2度目の2桁10勝に到達した。最終的には27登板、チーム勝ち頭の11勝7敗、防御率3.69の成績を残した。「駄目なら引退」と腹をくくった年に見事なばかりに復活だ。さらにオフにはFA宣言を行った。当時36歳。「FAなんて全く思ってもいなかったんですが、たまたま知り合いに『FAって考えないんですか』と言われて……」。
その後、スポーツ紙に「オリックス加藤 FAか」と報じられると、オリックスから残留交渉の話が来た。そこから他球団の自分に対する評価も聞いてみたいと思うようになった。前年の河村氏に続き、この年限りでお世話になった仰木監督もオリックス退団が決まっており、FA宣言に踏み切った。すると阪神、ロッテ、近鉄、ダイエーから誘いが来た。メジャーリーグのニューヨーク・メッツとテキサス・レンジャーズからも声がかかった。提示された条件は様々だったそうで、思案したという。
その中で、加藤氏は新天地に近鉄を選んだ。決め手は梨田昌孝監督からの熱いラブコールによって、一番長い契約年数を提示されたことだった。「近鉄は3年。3年も野球をやれるんだなぁと思って、そこを取りました。オリックスは2年だったんでね」。崖っ縁を意識した1年前には想像もしていなかった展開だったが、これも縁だと思って前に進んだ。4球団目。また新た気持ちでバファローズのユニホームに袖を通した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)